そして学校での私は変わった。あらゆる人達に挨拶をし、手を差し伸べ、慕われる人間になり、その頂点へと上り詰めた。
 そういう夢を見た。

 翌日学校に訪れた自分は何も変わっていなかった。
 朝は灰色の石畳の上を歩く。服は皆私服だ。規律は襟付きの服を着てくる事以外は何もない。町の外れにある学校は朝は同じ年頃の人達で賑わっている。
 赤色のレンガの積み上がった校門を抜けると広いグラウンドが存在する。そのスペースは模擬戦に使われる。今の私には縁がなくて寂しい限りである。
 学校と言われている場所は広い土地に校舎と呼ばれる木造の巨大な建物がひとつ。あとは被服棟と遠くに鍛冶棟があった。鍛冶を行う棟は火元が近い事もあって、石と鉄を使った校舎になっていて日中金槌の音が良く響いていた。
 共通科目を学ぶ場として、全員が集まる中央の学術校舎。朝の全員がそこに吸い込まれるように集まって、各教室へと足を運ぶ。

 教室という共同空間に入ると自分の席にそそくさと移動する。その間誰にも挨拶はしていないし誰にも視線を送られない。
 私の身長の高さにそれこそ入学して数ヶ月は視線を浴びたが今や皆慣れきっている。私は完全に空気と化していた。目立たないようにとしていた結果がこれである。
 クラスという入学した時に分けられた人達の枠に私は居るが、その中で作られたグループの何処にも属してはなかった。

 しかしその何でもないはずの朝は、広く晴れ渡った空とは違って最悪の雲行きを見せていた。
 本来何人か足りないのがうちの教室の常だが今日は珍しい人間が着たようだ。そしてその珍しく来てしまった人が、私の後ろの席に座った事だ。
 自分は身長が高い。その分座高も高いし体格は良いと言うべきなんだろう。探索者でも冒険者でも無い女性の高身長なんて褒められる所ではないが。そんな私の後ろに隠れる形になり、私がすべての視線を受ける形になった。どうして今私は教室の中心に陣取ってしまっているのだろう。せめて窓際なら視線を遮ってしまうのは前にいる人達だけだったのに。
 この学年が始まって以来一度も目にしなかったその人は自然と目を引いてしまっている。その人への視線を私が遮断し、その人の視線も背中に感じる。
 ええと、色々理由は有るんです。自分は眼鏡を掛けていて、黒板が見えづらいから空いていたひとつ前の席にしてもらった。まさかそんな事が仇になるなんて思っても居なかったことだった。

「あの、前の席の貴女」
「ぴぃ!?」

 聞こえてきたのは妙にはっきりとした声だった。通りのいい声に更に視線が集まる。目が回る思いで正面からの視線に耐えていたのでその後ろからの声に過剰反応してしまった。
 振り返れば椅子がガタンと大きな音を立ててしまってクラス全員の視線が私達に集まった。

「す、すみませ……」
「何故謝るのですか?」
「い、いえ、あの、前が見えないって言うんじゃないかって」
「そう言えばそれもそうですね。でも今はそうではなくて。貴女、背筋を伸ばした方がいいと思いますよ」
「ぴぁいっ」
「……大きいのにひよこみたいですね」

 彼女がそう言った時に彼女の中での私のアダ名が決まったような気がする。
 彼女は憮然とした表情からゆっくりと可憐な笑みを作って、微笑みかけてきた。その表情は私に視界を遮られて見えなかった者以外が例外無く惹きこまれたように息を呑む。
 人形のような美人だった。私ではなく普通の人に比べても小柄な人であると思うが、その態度が、雰囲気が彼女を決して小さいとは言わせない。
 黒い髪は揃えて切られていて、眼の色はぱっと見ブラウンだが少し左目だけが赤色を強く帯びているオッドアイ。全身黒い服を着たこの教室という空間では特に浮き立った存在だった。
 手を揃えて口元に当てて笑みを隠す。その丁寧で洗練された動きから彼女はある程度高い教育を受けている事が分かってしまった。

「ふふ、失礼。私はベルベット・メイ・ストレーニア。
 貴女の名前を伺っても宜しいでしょうか? ひよこさん」

 気づいてしまった。この人は貴族だ。庶民の生活を知るためとかで各クラスには男爵家以上の貴族が何人かいるクラスがある。もちろん貴族だけのクラスも存在していて身分が高い人のほとんどはそちらへ通うばかりだ。庶民のクラスに居る物好きは変人が多いらしい。男爵家ぐらいの子ならばむしろ庶民クラスの方が落ち着くと言うが、ストレーニア家と言えば遠方から来た氏族と言われる名門貴族でその黒い髪が特徴的だ。伯爵家ではあるが侯爵家との縁もあり有力者である。
 その名乗りに教室は騒然となり、私は背中に変な汗を流し始めた。

 私はくすんだ金色の長い髪をしていて、太枠の黒縁眼鏡をしている。眉も太くよく困っているかどうかを聞かれる。
 体の大きさは人並み以上で実は194センチを半年前に卒業している。肉体的には恵まれているのかどうやら重い荷物の出し入れや高い場所に手が届かないことはない。人混みの後ろから物を見れるが前に出るのは専ら苦手で外よりも家の中に居たい人間である。
 内向的な自分には辟易としていて、どうにか直したいと今朝思っていた所ではある。せめて友人の一人ぐらい作れれば変わるのだろうか。

 あらゆる人に挨拶を。
 そんな人間には慣れないけれど、せめて掛けられた言葉には反応すべきだし、挨拶も返すべきだ。
 今泣いてる場合じゃない!
 がんばれ私!
 全力で自分を鼓舞して喉の奥で詰まっている言葉をなんとか吐き出した。

「ぴ……あ、あう。あの! いたっ! わ、私はフィーフィー・コーカット! です」

 緊張で頭がいっぱいいっぱいだった。振り向きながらガンッ!と机に肘を打って尚挨拶を続ける形になった。
 こんな身分の高い人に会う機会など初めてだ。庶民の私に作法も何もない。
 周りの人間からは哀れみの視線が飛んでくる。ざわめきの中から耳聡く高身分な人に粗相を働いて停学や退学になった人も何人か居ると聞いた。色々な気持ちが交差して視界がグルグルとまわる。
 私が勇気をだして一歩を踏み出した途端、そこにとんでもない虎の尻尾があると教えられた気分だ。彼女の気分を害してしまえば私などひとたまりもない。学校に居られないほど罵倒されるか、毎日嫌がらせをされるか。
 終わったかもしれない。私をぽかんと見上げるその人が怒りだしたら私は終わりだ。ただ同対応すればいいかもわからずにただお互いにひたすら固まっている。

「……ふ、ふふふっ。あははは! あ、ごめんなさい、少しおかしっ、ふふっい、いけないわ……っこんなっふふっ!」

 笑われた。クラス全体からも失笑が起こる。
 当然だ。盛大に挨拶に失敗した。顔から火が出そうだ。もう帰りたい。

「はぁ、ふぅ。失礼しました。
 慌てんぼうさんですね、ひよこさん。
 大丈夫ですよ、この場でそのような事程度で非礼を問うような真似をしたりしません。
 この学習用の机もあまり大きくはありませんから。私も椅子に座る前に足をぶつけてしまいましたし」

 私の粗相なんて、彼女のそんな優しい言葉と笑みで皆忘れてしまったように見惚れた。もちろん私に視界を遮られていない人にとっての話だけれど。
 彼女の言うとおり、木造の机は真新しくて私が座るとより小さく見える。一人ひとりの体格に合わせた机ではなく、平均的な体に合わせて作られたものだ。それに総てが木造りな為、意外と椅子が重く動かしづらかったりする。
 お互いに笑い合う。私はぎこちない笑みを返してしまった。

「あ、あの……何故、姿勢を正せとい……仰ったのですか?」
「いえ、折角バランスの良い長身でいらっしゃるのでつい。長身は目立つでしょうけれど姿勢が悪いことで悪目立ちもしますし目も悪くなってしまいます」

 私の眼鏡を見ながら言う。目が悪くなったのは確かに最近の話だ。言葉に詰まって姿勢を正す。しかしこれだとやはり彼女は前を見ることが出来ないだろう。

「それは、その。どうもありがとうございます。
 よ、よければ席を変わります。わたしで見えないと思いますし」
「……そうですね。私には見えても見えてなくても変わらないですけれど。
 面倒事を避けるためにそうしたほうが良さそうです」

 彼女はチラリと視線を私ではないところへと向けてから目を閉じて小さくため息を付いた。私は何のことかも分からずに首を傾げる。

 席を変わってすぐ、先生が来て彼女を見とめると驚いたような表情をしたが、いつも通り出席を取り出した。教師も平民から爵位持ちまで様々だが、学園長が教え子に差をつけるなときつく言っており、貴族寄りになりがちな教師をバサバサとこの学園から排除している。また、権力を振りかざす傲慢な貴族生徒もバッサリ退学だ。戻ってきた人間は一人も居ない。
 だから彼女も無為に権力を振るえない。振るうような人間にも見えないし、ある意味私は今日無用な恥を掻いた所を彼女に救われたとも言える。
 改めて私の前にでた事によって視線は彼女に集中した。私はこのまま後ろの壁と同化していればいいのだろう。
 眼鏡を拭いて姿勢を正す。出席確認を終えた先生は改めてストレーニア様に自分の名前と担当教科を説明し、皆への自己紹介を促した後そつ無く授業へと突入した。

 休憩時間が訪れると私は壁と同化していればいいだろう。ストレーニア様に人が集まるのは仕方ないことだ。
 顔と名前を繋いでおくのは上流階級の嗜み。いろんな人達が引っ切り無しに訪れた。彼女が来たという噂は物凄い勢いで広がって、学年を超えて人が訪れているようだ。
 色々と回りくどい言葉を投げられていたが『何故こんな貧乏人のクラスに居るのか。貴族クラスに来い』という話が半分ほどと、露骨に昼食や夜会の話を持ちかけられていた。
 それら全てを『平民皆様の暮らしぶりの勉強の為』や『体調が優れない為欠席する』というのをふわっとさせた言葉ですべて乗り切っていた。どうもいままで不登校だったのが体が弱いせいらしく、あまり無理できない人のようだ。

 人が途切れたタイミングで何か声をかけようかと考える。本当に少し疲れているように見える所を見ると体が弱いのは本当の事なのかもしれない。病弱な深窓の令嬢が儚くため息をつく。
 ただ基本的に上流階級の人にはこちらから話しかけてはいけないらしい。そういうお高いところは嫌いだと母が昔言っていた。まぁ疲れているようだし話しかけない方がいいだろう。そう結論づけた所で彼女が小さく溜息を吐いて居ることに気づいた。

「……お疲れ様です」

 私の言葉に赤銅色の瞳がこちらを向く。キラキラとしていてガラス細工のようにも思える。
 向いた瞬間こそ不思議そうな表情だったが、何かを察してふわりと微笑んだ。

「いえ。お気遣いなく。
 こちらこそお騒がせしてすみませんでした」
「それこそお気になさらないで」

 そんな風に言われても、あれが礼儀に近いのだから仕方のない話である。顔つなぎは必要な事だしやらなければ彼らとて繋がりを無くし家族からも何か言われるハメになる。数日中はこうなるだろうと、周りからも聞こえてきていた。

「……やっぱり、席をかわりましょうか。私が姿勢を正せば貴女は入り口から見えなくなるでしょうし」

 ちょっと最近背中が丸まってると母にも言われていたところだ。姿勢を正すと、家の玄関ではちょっと狭いというのもあるのだが。幸い学校は私の身長で正して歩いても大丈夫なぐらい広い間取りをしている。戦争など有事の際には大勢の人間が出入りできるように作られているそうだ。私が背を正して歩いてもなんら問題が無い。ただ身長を正せば皆に見上げられてしまうのが分かって、恥ずかしいのだ。

「えっと、正直にいうと初めそうなれって言っているように思われたかも知れないと思いまして代わって貰った次第です」
「あ、はぁ。別に構いませんけれど」

 なんだろう。人のことを壁代わりにしようとした事は即座に認めてしまった。別に不快になったわけでも無くとても素直な人だなぁと感じた。別に含む所のない表情だったし、いま私の表情を伺っている様子もない。

「最初は折角体型がいいのですから背を伸ばして欲しいと思っただけなのです」

 素直な感想としてそんなことを言われると返答に困る。そもそもそんなことを言われたのは初めてだ。

「話してみると性格は可愛いし、ギャップが凄い……何というか、可愛い人ですし」

 なんだか熱の入った言葉になってきていて本格的に恥ずかしくなってきた。

「ひよこさんのようで、何というかふわふわしていて、大きくて……はっ!」
「あの……」
「あ、失礼しました……」

 周りの視線を集めていることに気づいて二人で赤面してしまった。
 目が合うと何となくおかしくなって笑えてくる。

 口元を抑えて二人で必死に爆笑を抑える。

 そんなことをしているうちにその日の授業は終わりを告げた。
 ストレーニア様は席を立って私にまた明日、と言った。それにまた小心者の私が驚きながら返事をするとクスクスと笑いながら去っていった。

 その日から。私の周りの全ての時間が動き出したような。
 一つ大きな歯車がガチリとはまりこんで、世界を大きく回す。そして自分の世界が回ることで私は世界の大きさを知ることになる。

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