閑話『夏の日』


「プール?」

 空調の効いた部屋で雑誌を片手に聞き返した。
 クラブから帰ってきたばかりでまだ少し熱が残っている。

「そう。だってさ、海だと焼けるもん。痛いじゃん。
 それにもうクラゲだらけだよ!」

 別段野郎の自分としてはなんら問題なくこんがりしていていいと思うのだが、女子である詩姫と京はちがうらしい。
 盆を過ぎたこの時にはもう川は閉じられているだろうし海はクラゲだらけだ。
 となれば考え付くのはプールともなるが、室内プールを御所望らしい彼女が両手を挙げてそれを強調していた。

「別にいいけど……どこもいっぱいだろうし室内ってこの辺あったっけ?」
「あるよーっこれ、駅前でパンフ貰ったんだけどさっ。
 ねっねっ面白そうじゃない?」

 振り返ると満面の笑みで詩姫がぺらぺらの紙を一枚俺へと差し出していた。

「ん、んー」

 それを手にとって目を通す。
 青色の爽やかな色使いのパンフレットでたくさんの施設が映し出されている。
 ウォータースライダーで楽しく遊ぶ写真やプールで涼しそうに流れている写真。
 夏の魅力が詰まったまさにプール施設の紹介パンフレットだ。
 アクセスを見ると電車で二駅先の街で確か前の年に新しく出来たという話を聞いたような気がする。
 室内設備だったのかここ、というのが正直な感想で去年まではそういうのは考えず海に行っていた。

「ねっみんなでいこうよー」

 詩姫がうりうりと頭を押し付けてくるのを手で制しながらぺラっと裏を見る。

「へー……あっ、これ学生には優しくないぞ」
「さんぜんえん……で、でもっこんな時ぐらい親に頼ったっていいじゃない!
 あたしは大丈夫っ」

 きゅっとブイサインを作ってみせる。最近倹約にはまってるとかいってたしな。
 欲しいもののために色々と頑張っているらしい。
 一方の親、兄弟は轟々とお金を使うらしいというのに。なんという健気さだろう。

「まぁ……というか女の子は水着のついでっていう感じだしね」
「切実なんだよっ」

 水着の値段はピンきり。男性用は千円かそこらだが、女の子用は倍以上の相場だ。
 加えて種類も多く、思わず目を見張る夏に映えるモノばかりだ。
 かくいう俺もほら、色々遊びたいし。プールは行きたいです。そこに横縞模様の念はあると思う。

「俺はいい。京とアレは?」
「みやちゃんも柊くんも大丈夫だよ!」
「あれっもう連絡したのか」
「っていうあたしの勘! いこう!」

 それは見切り発車というんだぞ。

「根も葉もねぇ……じゃぁ、ひいらぎくんの方は連絡してやるよ」
「じゃぁあたしきょうちゃんにするー」


 友人達の名前を読み間違えつつ携帯を開いて番号を押す。
 シュウもミヤコも大概最初はそうやって間違われるのだ。
 プルプルとしばらく呼び出し音が鳴って留守電のメッセージが流れだした。
 別に珍しくも無い。クラブとか家でも稽古とか色々あるので出ない事の方が多い。
『ピーと言う発信音の後にメッセージをお願いいたします』
 機械音声が感情の無い声でそう言うと、ピーっとその発信音が鳴った。

「ああ、シュウ。お前は大切なものを失くした。
 もう夏が終わりそうなんだぞ? お前はそれでいいと思っているのか?
 しかしなんだ、今年のこの体たらく。俺たちは海にも行ってないとは。
 そう、俺『たち』! 今年も夏に実るたわわな果実を狩に、いたっ」

 詩姫に叩かれたのでぷつっと切っる。
 冗談が過ぎたか。いや、別に京の水着が凄い見たいとか言って無いしほら。
 柊を焚きつけるために言っていたその言葉は、顔を上げた瞬間に後悔に変わった。
 右手に携帯、左手を拳にした詩姫が俺の目の前で仁王立ちしていた。


「何がぁー『たわわ』なんですかぁー?」
 なんかすごい形相で睨まれる。
「え、いやほら、ウォーターメロンとか?」
 夏といえばの風物詩。水分も多く美味しいじゃないか。はは……。
「スイカ? スイカがいいの?
 アメリカンナイスボディー!?
 うわーん! 涼二のエッチー!」

 詩姫の左手のグーがボフボフとベッドに吸い込まれる。
 俺が横に動いてなければ頭に当たっていた位置だ。

「お、おちつけっ!
 別に胸はどうでもいいし!」

 床に転げて馬乗り状態になったところでまったをかける。
 そういう理不尽な暴力はよくないと思います。

「そうやって男の子は嘘をいうーっ」

 ボフッと枕を盾にさらにかわす。

「嘘じゃないって! でかけりゃいいってもんでもないしっ」
「どーせどーせっみやちゃんみたいに手から溢れるほどは無いしっ」

 そうだったのか……。確かにその噂は聞いていたが。

「いいよいいよっあたし行かないっみやちゃんのナイスバデー見てればーっ」
「折角なんだから他だけ居ても意味無いだろーっ」
「他?」
「そ、その」

 急にぴたっととまってうるささがなくなる。
 こういうところに敏感なんだよな詩姫は。

「詩姫がいれば別に……」

 尻すぼみになってしまったのは言ってる途中で恥ずかしかったからだ。
 別に詩姫がスタイル悪いわけじゃない。バランスがいいというのは京の評だがその通りだと思う。
 身内贔屓差し引いても美人だし申し分ないのだが。
 それとアレが好きなのは悲しい野郎の性というか。
 人生に一度は通る話題だと思う。


「……えへ。へへへ」

 あーもー最近こんなのばっかりだ。
 事ある毎にこう確認されてしまうというか。
 言わせた後にこうなんか変になるコイツ。
 前からだけどニヤニヤと笑ってちらちらとこっちをみる。

「き、気持ち悪りぃ」
「照れちゃって涼二ー」

 ぷすと頭につめが刺さる。

「うるせっ」
「なんていうか、涼二の恥ずかしいけど言ってくれる瞬間が大好きっ」
「変なフェチだなっ」

 コイツは相変わらず恥ずかしいことをはっきり言う。

「あたしは……うん。涼二の言葉フェチだしっ」
「言葉?」
「うん。言葉、かな。
 涼二が歌うとか。
 しゃべるのとか。
 なんか、こう……言い表せないけど……」
「声?」
「ううん。違うの。言葉が好き」
「言葉だけ?」
「涼二は全部好き。なら涼二の言葉が大好き」
「わかんないな」
「わからなくていいよ」
「そういうもん?」
「フェチズムだよ」
「……なら仕方ないな」
「仕方ないよ」
 また彼女が笑って軽く口を重ねる。



『で、それを私に聞かせるの?
 嫌がらせ?
 ひめちゃん嫌がらせなの?
 切っていいの?』
 
 その声は詩姫が右手に持っていた携帯から発せられた。
 
「はひゃっごめん!
 みやちゃんのウォーターメロンがね!」
 電話切ってなかったのかよ……!
 正直死ぬほど恥ずかしくて悶えていたところうりうりと詩姫につつかれる。
『おやじくさいよひめちゃん……あと涼二にエッチって言っといて』

「涼二涼二」
「何?」
「えっち」
「否定はしない」

「言っといたっ否定はされなかったよー」
『あはは。男の子って……』
「男ってホントねー?」

 と言われても。携帯の向こうの声は聞こえないが男ってホントねーの件は女の子だけで話して欲しい。
 自分の部屋なのに妙に居心地が悪く感じてベッドに転がり込んだ。
 
「あはっでももうサイズ合わないんでしょ?
 一緒に買いに行こうよー」
「サイズ合わない……去年、だよな買ったの」

 聞こえる詩姫の声だけを頼りに想像した結果コレだ。えっちの件も肯定せざるを得ない。
 まぁサイズが会わないと言えば水着と決まっているんじゃないのか。
 新しく買った話は毎年うれしそうに言うし。

『べ、別に太ったわけじゃないよ!? 成長したんだよ!?
 キツイけど、着ようと思えば……』
「着れるかどうか……あとそのほか。
 涼二っ、今から行ってくる!」
『え、いや、ひめちゃん?』

 パコッとピンク色のまるっこい携帯を閉じる。
 使命感を帯びたキラキラとした眼だ。

「あわよくばわけてもらって来る!」

 ぐっと拳を握ったかと思うとワキワキと指だけが動いた。
 その意図は汲まないことにしてぺらぺらと手を振る。

「いってらっしゃい」

 バタバタと走り去った詩姫を見送ってベッドの上に上って窓を開けた。
 ばたんっと扉が開いて詩姫がお向かいさんへと突撃する。
 丁度その時、向こうの扉も窓の向こうに張り付いたが、すぐに玄関チャイムが鳴った事に驚いて後ろを向いた。
 詩姫ももう慣れた仲だ。扉を開けてささっと入っていく。
 こっちと扉をきょろきょろとして、俺が肯いて親指をぐっと立てるとため息をついてカーテンを閉めた。
 あの布一枚向こうはめくりめく女の子の世界になるんだろう。
 ……別にちょっといいな、とか思ってない。
 どうやってあわよくば貰うのかは知らないがまぁ京には頑張って相手をしてもらおう。
 テンションが高いとどうも妙な行動力があるよな。



 雑誌の続きでも読もうと思って手を出すと携帯がぶるぶると震えだす。
 詩姫は知らないだろうが着メロは詩姫が歌ったものを先生がレコーディングしていたので頂いてきたものだ。
 ほぼ商品レベルでクラブの友人達には受けがよかった。
 その着メロは詩姫と居る間はマナーモードで静かにしてもらっている。
 バレたら恥ずかしいが……待ちうけも着メロもボイスも統一されたあっちの携帯に比べたら可愛いもんだろ?
 そんな事はさておきだが、携帯を開いて名前を確認した後受話ボタンを押して携帯を耳に当てた。


『もしオレ!』
「お前には失望したよ」

 ぷっ
 ぶるぶるぶる!

『ちょっとまて! なんで開始一言で失望されなきゃならん!』
「オレオレ詐欺なんてもう古いし、それを略したところで流行ってる風ですらないんだよ」
『じゃぁスルーしろよ! 切るのは酷いっ! 涼ちゃんひどいっ!』

 ぷっ
 ぶるぶるぶる

『悪かったって。で、オレとたわわな夏のハンティングスライダーが失われたなんだって?』
「お前は言葉の意味をもう少し考えろ」
『何々? 失われた都市へダイブ?』
「お前はアトランティスにでも用事があるのか。
 残念だな、俺は詩姫と京と一緒にプールに行くんだ。いいだろ?
 ドーバーかインド洋か知らないが沈んでくるといい」

『いーーーーなーーーーー!!

 おまっ! おいおい! ボクは!?』

「たわわな夏のハンティングスライダーが失われたアトランティスだ。じゃあな」
『まって! 待って下さい涼二くん!
 ボクもアトランティスはキャンセルで行きたいんですが!』
「二人乗りボートに三人で、しかも真ん中に乗るのが夢です」
 男同士の会話には遠慮は要らないと思う。
 そもそも遠慮するような相手じゃないが。
『オレも! オレも!
 ナマいってすみませんでした涼サン! うっす!』
「ははは。ああ、そうそう、入園料がさー」
『ははは。おう? 入園料?』
「三千円」
『え゛っっ!? 高くね!?』

 やはり三千円はキツイ。
 というか夏休みはカラオケやら何やらで遊びまくっているので仕方が無いのだ。
 学生が夏の終わりに払って遊ぶ額じゃないと思う。
 交通費と食事代を考えると五千ぐらいは覚悟して遊びに行かないといけないし。

『うみは? 海ならほら、みんなでスペース借りたりとか……
 なんならオレパラソル持ってくし! なんなら弁当もつけるし!』

 柊が必死だ。というのもコイツが一番色んなところと遊びに行くので金欠なのだ。
 コイツ自体は海にはもう何度か行っているようだがこっちの集まりでは行ってない。
 俺もサッカー部の方で行ったし、軽音とカラオケだって行きまくってる。

「いや、俺もそれがいいんだけど焼けたくないらしい。そんで遊ぶ気だ」
『まーじかー!』

 ここの女の子的には十回の海水浴ではなくて一回の室内プールが嬉しいらしい。
 ならば俺たちはそれに準じてあげようじゃないかという優しさを見せるべきじゃないだろうか。

「まぁ去年も京、日焼け止め塗りたくって服着て帽子してたしな」
『健康的でいいと思うってのは男の言い分かね……ふふ』
「だな。で、どうする? 一本背負いされに行くか、遠くから見学か」
『オレ人生で一番したくねぇ二択を今目の前に出されたよ……
 ちょっとまて。あー……うー……おし。背負われてくる』
「わかった行って来い」
『おう! 無事を祈っておいてくれ!』
「お前は俺に3人乗りをさせたいのか?
 俺は一向に構わないぞ?」
『さて……今日なら勝てる気がする。いってくるわ』

 プッと今度は向こうから切れた。
 俺は携帯を閉じてふぅっとため息をつく。

 外は蒸しかえるように暑い。
 補習や部活で学校に行く生徒は多いが夏休みだ。
 夕焼けに染まる空模様。ボーっとしてると少し眠気が来る。
 クーラーつけっぱなしで寝ると体に悪い。
 ただ、消して寝るほどの勇気も無い。この部屋は西日が入って暑いんだ。


 雑誌を開いてまどろんでいるとやっぱりいつの間にか寝ていた。
 日はどっぷり暮れて京の家のほうからの明かりが部屋を照らしていた。
 詩姫は帰ったか、と思ったがカバンがまだ部屋に置きっぱなしだった。
 まだ向こうにいるのかな。
 あくびをしながら起き上がって、首を鳴らした。
 下からいい匂いがする。腹も減ったし降りるか。


 下では仲睦まじい声がキッチンから聞こえてきた。
 あんな風に母さんが楽しそうにしているということは詩姫がまだ居るらしい。
 今日は此処で食べていくのだろう。
 俺がひょっこりとダイニングへと顔を出すとすぐに詩姫がこちらに気づいた。
 母さんはキッチンに向かって料理中である。
 テーブルに置いてあった何かを持って詩姫がパタパタとこちらへと寄ってきた。

「涼二涼二っ小母さんがね、プールに行くなら〜ってはいこれ」

 茶色の色味を帯びた紙が目の前に出された。
 詩姫から山折されてユニークに笑う諭吉さんを頂いてびっと机の上で綺麗に伸ばす。
 貴方がそんな卑しい笑みを浮かべなくてもいいんだ!

「母さん」
 キッチンで調理する母さんは話しかけた俺のほうを見ず返事をした。
「あら、プールは?」
「行くけど、いらないからコレは返す」

 そのお金をキッチンとダイニングを仕切っているカウンターに置くと、母さんが振り返ってため息をついた。

「ほらー受け取らないのこの子」

 やっぱりか。きっと俺がちゃんと受け取るように詩姫から渡させてみたんだと思う。
 俺は臨時的なお小遣いは受け取らない。
 それは主義であるし必要も無いからだ。
 今までに貰ってる分をちゃんとやりくりして使ってる。
 足りなければ登録制のバイトで自分で稼ぐ事もできる。携帯は便利だ。
 それを教えてくれたのは兄。

「しっかり育てすぎですよっ」
「そうなのよー」
「別にそこは悪くないだろっ」
「小遣いは毎月貰ってるし、別に足りないわけじゃない。
 そうやってホイホイあげるから子供が何でも欲しがるわがままになるんだっ」
「そうね。こんなにわがままだもの」
 ふーっと溜息をついた頬に手を当てる。
「恐れ入ったか。俺の育ちに免じて返金っ」
「いーわよぅ。みんなで遊ぶんでしょー?」
「そ。あ、パンフのこれ今日のチラシにも入ってたんだ」

 新聞の上においてあった今日のチラシの中に見覚えのある色の紙を引っ張り出すとその遊園施設のものだった。
 家族連れで、なんて売り文句が少々違うが場所は同じだ。
 母さんが料理を運んできたついでに後ろから覗き込んでくる。

「あら。ここに行くの〜?
 だったらちょっと待っててね。
 パパの入ってる保険組合のやつで割引が利くのがあるから」
「え、マジで?」
「マジマジよ〜」

 そう言って戸棚の引き出しを開けて大きめの封筒を引っ張り出す。
 その中をぺらぺらとめくってピッと小気味良い音で何かを破いた。
 手には二枚程のチケットのようなものがあってそれを俺たちに渡す。

「はい。コレ。半額になるわね」
「小母さんさすがっ! 大好きっっ!」
「まぁっうれしいわ〜。コレは使ってくれるかしら?」
「もらうよ。ありがと。みんな喜ぶよ」
「そうっあとはコレ。皆分出すわ〜」
「いや、だからー」
「涼ちゃん、お母さんが払ったげるって言ってるの。みんなのよ?
 納得が出来ないなら、涼ちゃんのは自分で払ってもいいわ」
「……わかったよ」

 むっとしながら財布にニヤニヤと笑う諭吉をしまう。
 貴方まで俺を馬鹿にするのかと紙の上の偉人に言っても仕方ない事。
 母さんは満足げに頷いてキッチンへと戻った。
 そんな俺をみて詩姫が一言。

「涼二、最近素行が一段と素直じゃないよね」

 ぷすっとまた詩姫に頬を指される。
 痛くは無いのでそのままにしておくことにした。

「素行が素直じゃないってどういう事だよ……」
 どうなってんだよ俺の素行……。毎日違う事してるとかだろうか。
「大人ぶってる?」
「今のお金の事か?」
「うん。だってあたしなら貰えるなら貰うよ?
 だってお母さんだよ?」

 まぁ自慢するわけではないが、別段俺はお金に困る必要は無い。
 今のも渋らず貰う事だって出来るが俺が真似ている人はそれをしなかっただろう。
 めずらしくそれは兄のやった事ではなく、俺がやってみようと思ったこと。
 学校で最も優秀な特待生で苦学生の先輩の真似だ。
 俺のひとつ上のその先輩は色々なクラブに出没する人で多分あの学校であの人を知らない人は居ない。
 その人には家の事情があって、学校から許可があってバイトをしている珍しい人だった。
 この学校に入ったのは学費免除制度の為。
 聞いた話によると家事も炊事も全て自分でやっているということではないか。
 完全な自立を高校生でやってのけて飄々と生き、高評価を得るその人。
 成績で言えば、負けてないのかもしれない。

 そう俺は少し変な人間で、物事の勝ち負けが行動原理になっている。
 『なんか負けてる気がする』それが俺の行動を変える。
 だからその人を少しまねてみようと思った。
 あの人がやってる事は並大抵の人に出来る事じゃない。
 生徒会でもなければ風紀委員でもない。クラブもやっていなければ大会にも出ない。
 そんな只の帰宅部イチ生徒が学校で最も知られている人間だというのがまずオカシイ。
 全クラブに顔を出すなんてどんな勇気で出来るんだろうというものだ。
 ただ現れるだけなら変な奴。そこで人気が出るからあの人は異常な人。

「んー。ちょっとね。先輩の真似。
 でもあの人みたく上手くなれない。
 しっかりしてるって言うか……やっぱり環境かな」
「お兄さんじゃないんだ」
「まぁね」

 これは諦めたほうが良さそうだ。
 俺には合ってない。
 環境もない。
 似合わない。
 目に見えて頑張ってて、嫌味じゃない。
 朗らかで人を集める。その中で笑ってる。
 壮絶な苦労話が有るのに笑ってる。他人事みたいに。
 しっかりしてるとか、芯が強いとか。言い方は沢山有る。
 ただどうやって真似をすればいいのか分からない。
 その人は―――やっぱり、天才側の人かな。良くわからないけれど。


 母さんはいつも通り食事を運んできて最後にペタペタとご飯を盛っていた。
 そしてその全員分をトレーに乗せて持ってきた。
 今日もいつも通りおいしそうなのではあるが先程からある疑問があって立っているその人に向けて顔を上げた。

「そういえばめずらしく付いてくるって言わないな」

 カラオケとかボーリングなら結構しつこく言うのに。
 しかもいいって言ったら本気で付いて来るのに。
 母さんはトレーからご飯を全員分置いて立ち上がると何も言わず背を向けた。

「……あと……3年早ければ……」

 母さんは深いため息をついた。
 割とリアルな数字なあたり3年前ならそう言っただろう。

「ごめん。超遊んでくる」
「いいわ〜。若いっていいわ〜」
「みゃっ!? お、おばさんっなにっなに〜っ!?」

 涙目のおばさんに抱きつかれてもみくしゃにされる彼女を横目にチケットも財布へと閉まっておく。

「食べていい?」

 もぞもぞ暴れている二人を見ながら俺はソレを訴えた。
 目の前では暖かく湯気を上げる食事が並んでいて思わずお腹が鳴ってしまう。
 詩姫を揉みに入った母さんはブツブツと何かを唱えているが聞こえない。

「あ、まって! なんとかして涼二〜っっ」

 詩姫が手を伸ばしてこちらに助けを求めてきていた。
 俺は笑顔でパンッと手を合わせて料理してくれた二人に感謝を捧げる。

「いただきます」
「うわーん! あたしもごはん〜〜!」

 今日も水ノ上家は平和です。
 何かを忘れているような気もするが……まぁいいか。



 翌日ボッコボコの柊を見てその事実を伝えていなかった事を思い出した。
 
「まぁいいか!」
 そう言ってポンと柊の肩を叩く。
「お前が言うな!!」
「ははは! どんまいっ」
 柊が勢い良く突っ込んでくれた事に満足して四人、夏に歩き出した―――。

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