閑話『十兵衛 前編』
――隻眼に慣れ十年。
世の空は武の高鳴りに満ち、自身もその渦中に身を置いていた。
天下は統一を歌う織田が消え、その後を担うが豊臣秀吉であった。
天下統一を目前で消えた武将の無念は計り知れないが――誠見事な生き様だ。
今や言葉や書物で書き記された天下の武人達はこの世には居ない。
徳川家康の天下に変わり江戸の町が栄え、柳生の道場が広くなった。
何かが大きく変わったのか。そうでもない。
武士は農民を栄えさせ、年貢を納めさせる。
下克上や農民一揆の話も絶え間ないのだ。
刀を振りかざし土地を奪う――それで何が変わるというのか。
父の語る関ヶ原の戦に変わってしまったのは自分達だけなのではないかと疑問を感じる。
どれだけ戦った所で領地が変わり農民が被害を受けるばかりである。
かつての人もこの世を嫌って此処を飛び出した。
流浪人と言うのも嫌に相応に見えるが列記とした武士だった。
ヘタな流浪人よりは世に馴染む。
名を上げる事に興味は無く、ただ父の為に己が刀を振るった兄弟だ。
「三厳<みつよし>様」
「……何用か」
声に応じて壁に任せていた頭を擡<もた>げた。
春の陽気に縁側で少し桜の様子を見ていたのだ。
本日の鍛錬は終了している。
道場自由に使えと解放しているので誰か人が居るだろうが今日竹刀を振る気分ではなかった。
「宗矩<むねのり>様がお呼びに御座います」
「……わかったすぐに行く」
父上は――あまり会いたくない人物だった。
厳格に満ちた人間で天下無双の名乗りを上げる剣豪。
柳生無くして徳川無し。
影響力は強い。
剣術指南は父上や兄上の仕事で今自分は道場の方で修行となっている。
この際修行と銘打ってかの人のように自分も諸国放浪に耽ってみようか。
ああそれは名案だ。
など下らぬ会話が脳裏を駆け自らがこの屋敷の主の部屋の前に立っていることに気付いた。
正座をし頭を下げてた。
「失礼仕る。三厳、只今参りました」
「入れ」
そう声がしたので襖を開け小さく内側へと入りまた戸を閉めた。
父上の前に顔を伏せ失礼の無い様気を払う。
「顔をあげよ。楽にしてよい」
「は……。して今日は何用が御座いましょう……?」
「ふ……そう気を張らずとも良い。戯言だと思い聞くがいい」
「……?」
それは至極珍しい親父殿の呆れたようにだが笑った顔をそこに見た。
七志が死んでからはついぞ見なくなったのだが。どういうことなのだろう。
「――七志と会うた。主と渡り合って負けたと笑っておったわ」
親父殿が眉を顰めた。
「――ッ!? 馬鹿な七志は私が――!」
私が燃やした。亡骸は埋めたはずだ。
「落ち着け。だが事実か。成るほど……」
それに試合の途中に息絶えた七志の最後の言葉は私の胸のうちに収めて置こうとしたのに。
「父上! 何故それを知りえたので御座いますか!」
「……七志の声だった。紛う事無き奴の馬鹿声でな。
縁側に座っておると言っておったがついぞその姿は見せんかった」
「……!? な、何を言っておられるのです」
「だから戯言よ……先日の夜更けに部屋に戻った時に聞いたのだ」
何を言っているんだ……父上は。……ついに歳にやられたか?
本当に訳が分からなくなってきた。
だが声だけに惑わされているとあれば。
「……草の者の仕業と言う事では?」
「なれば襲えば良かろう。死人の声の真似をして消える程度が何の足しになる。
刀を持って探しては見たが嘲笑うばかりで腑に落ちなくなってな。
人を呼んだが声など聞こえないという。
儂の幻聴か妖かしの類か、どうにも声だけは聞こえる。
儂に会いに来たと、奴が申したのでな部屋に入れて話を聞いたのだ」
「ち、父上……? もしや御病気か?」
医者を呼び診てもらうべきかと本気で考えた。
だが私を呼び出しての打ち明けだ。
あまり大事にするべきではないだろう。
「馬鹿者。儂はそんなに衰えてはおらん。
あ奴、化けて出よったぞ」
「は――!?」
「今宵はお前の所に出るそうな。
……まぁ儂も自分が信じられぬ日が来るとは思わなかった。
忠告として話して置く……信じる信じないは任せよう」
「……お、可笑しいです父上。何故その者が七志と思われか」
「――主を知っておったのだよ三厳。
共に育った記憶、そして左目。更に主の――」
続く言葉に一瞬詰まって視線を下げた。
屋敷内では絶対に口にしてはならない言葉に当たってしまったのだ。
「父上……!」
ただならぬ事態。
それを知っているのは本当に両親と七志と乳母だけなのだから。
父上や母上からそのことが漏れるようなことは無いだろう。
七志や乳母にしてもこの歳になるまでずっと内密にしていた事を公にするようなことは無いだろう。
だが父は何を言うでもなく一つ溜息を付いた。
そして困ったように私を見る。
「ああ……すまぬ。
もう下がってよい。
儂が疲れておるだけなのやも知れぬ。
まだあ奴の死から日も浅いとは言え、誠戯れた夢よのう」
「……お察しします。今日は十分な休みを取られると良いでしょう」
「分かっておる。済まなかった三厳」
――部屋を出て空を見上げた。
薄い青の広がった空は西から赤く染まり始めていた。
夕刻の鐘が屋敷にも聞こえ、鴉が暖かな日に当たり鳴いていた。
戯言と言って私に事を話した。
本当に唯の親父殿の戯言であれば良いのだが。
いささか言いも知れぬ不安が過ぎる。
親父殿との間七志が話しに上がる事は稀だ。
本当に化けて出たか七志。
ならばもう一度剣の試合を申し出てくるのだろうか。
「道場破りだぁー!」
「師範を呼べ!」
遠くでざわめきが聞こえた。
無論その聞こえた声が本当ならば道場破りなのだろうが。
「まさか、な」
七志とかではあるまいな、と少し訝しげな顔をして道場に足を運んだ。
「何事だ?」
「師範代! ど、道場破りという奴がいきなり――!」
狼狽する門下生の一人に事情を聞く。
柳生新陰流の壁は厚い。
大概の道場破りにも道場同士の遠征試合にも負けはない。
ここでひとつ驚いた。
門下生で一番腕の立つ男がその男の前にひれ伏していたという事だ。
師範に足る腕は父にも認められていた男が負けたとあれば承知ならない。
「其の方、此処を何処と心得る。
柳生宗矩、柳生新陰流が道場に何の用だ」
冷静にその道場に押し入った者を見る。
体格は自分の倍は在ろうかと言う巨漢。
私自身が大きくは無いが一般的な男から見てもその大きさは巨漢と言うに相応しい。
斬馬刀をも振り回せそうな逞しい腕は、竹刀を軽々振り回していた。
「道場破りじゃ!
道場主を出せ! 看板を賭けて勝負じゃ!」
見た目通り学の無い物言いで竹刀の切っ先をこちらに向けてきた。
負けたであろう門下生がこちらを向いて謝る。
「……も、申し訳ありませぬ三厳様……」
「――よい。早く手当てをしてもらえ。
して、道場破りの者、主は何を賭しておる」
こちらが看板を賭け戦い、道場破りは何を賭けて戦うのか。
それに等しい対価が無ければ戦う事も無い。
私自身がそう思っているし、父上も同じ事を言う。
「無論命じゃ!」
「……ならば用は無い帰れ」
「なんだと!?」
「貴様の安い命など看板を賭けるに足らぬ。出直せ」
「言わせておけば……! 女子のような貧弱な武士が! ワシが怖いか女顔!」
女顔……か。
それももう何年言われてきた事か。
体格もこのもやしの様な細い腕も影でも表でも随分と馬鹿にされてきた。
更に隻眼とあればどのようなものでも私には勝てると言ってくる。
断ると面倒だ。難癖つけて何度も挑んでくる。
「では……、一本で勝負いたそう」
このような事は多い。
時世が安泰に向かっているとはいえ農民の武士への不満が収まるわけではない。
昔であるならこの役割は七志の役であった。
血の気が多くどのような誘いにも乗って武を愉しむ――。
その身に宿した天賦の武才は瞬くままに成長し、私など適う事は無かった。
だからと言って勘違いしてもらっては困る。
私も七志に負けぬようと努力を重ねてきたのだ。決して弱くは無いと自負している。
ああ、だが今日は気分が乗らぬと竹刀を取らなかったのに結局持つ事になってしまった。
一度溜息を付いて道場に立った。
「始め!!」
パァァンッッ!!
竹刀の音が道場に響き渡った。
その音に遅れてドサリ、と巨体が倒れた。
『おお……!』
「い、一本! そこまで!」
何の事は無い。唯踏み出して大振りに頭を叩いた。
鼻血を垂らして阿呆面をしている挑戦者は泡吹いて痙攣している。
「さすが、三厳様……! 殆ど見えなかった」
「正に雲体風身……オレもあんな風になりてぇなぁ」
「俺、三厳様なら……」
口々に賛美やら妬みやらの声が聞こえる。
私を見ていた門下生にソイツを放り出すように言って道場を去った。
全く詰まらん。
また無駄な事をしてしまった――。
空は完全に茜色に染まり桜を飲み込むように赤く染めていた。
そのだ桜が良く似合う奴だった。
正に桜のような散り様。
何を言う事も無く。
いつの間にか――私の前から居なくなった。
「――……」
敷地から見える桜。道場の花見会もつい最近行われたばかりだ。
あいつもその席が好きでよくつぶれるまで飲んでいた。
――月見と花見を愉しむ為に、縁側で見ていたような事もある。
一緒に花見をし飲み交わした杯は数知れない。
無二の友であった。
「――ぷっはっはっは! 強いなァ三厳」
身体が強張った。
不意に聞こえた声がやたらと誰かに似ていて。
虚空で詰まらない世界が急に色づいた気がした。
ヒラヒラと足元に舞って来た桜の来た先をゆっくりと視線が辿る。
声の主は――死んだはず、ではないか……!
「七志!!!」
片目に映ったあいつを見て、叫んだ。
何故――何故、生きている……!?
「あ、声はあまり張り上げるな三厳」
「馬鹿者そんな訳には――!!」
「どうしました三厳様!」
「何事ですか!」
「お、お前等あそこに!」
「……!? 桜ですか?」
「桜の木がどうか致しましたか!? もしや曲者が?」
肝が冷えた。
もう一度そこを振り向けばやっぱりな、と手を顔にやってため息をつく七志。
「え――」
そこに七志の姿は見える。
今はこちらを向いて見世物のように楽しげだ。
よもや謀かと疑い見たがただただ必死に何かを見つけようとする屋敷の者にその疑念は晴れた。
「ぷっはっは! そ奴等に己は見えんし声も聞けんよ!
三厳お前だけだ己が見えているのはっはは!」
化けて出るとはこういうことか――!
これ以上屋敷の者に何を言っても無駄なのか。
ああ、親父殿はコレのことを言っておったのかと確信し、コホンと咳払いをすると言い訳を考えた。
「――あー、その、アレだ。
私の竹刀を咥えて逃げた野良犬がおっただけだ」
我ながら何と下手ないい訳だと苦笑した。
「ぷっはっはっはっは! あろう事か野良犬か!」
木の根元で笑い転げる七志には後で仕返しをするとしてとりあえずこの場は何とか乗り切ろう。
「三厳様の竹刀を!」
「追われますか!?」
「……いや、いい。騒ぎ立てて済まなかったな。
竹刀等いくらでも作れる。野良犬の玩具の役に立つならそれもよかろう」
「はは。寛大ですな」
「よく考えればあれほど竹刀の似合う野良犬もおるまい」
言いながら七志を睨む。
「おおう怖い怖い。世の剣豪の視線は斬れる様に痛いぞ」
「下がってよい。私は夕涼みに桜を見ておる夕餉には部屋に戻る」
「はっ」
二人の側近はそそくさと足早にその場から去っていく。
下駄を履きその木下へ歩み寄り、酒を愉しむように笑うそいつの所へ行った。
「――七志か。それとも狐が化けたか」
同じ隻眼の眼帯。
細身で長身だが筋肉は隆々と付いている腕。
顔も声も笑い方も全部あいつだった。
そいつは煙管に草を詰め、火をつけた。
「失敬な。幼少から共に剣を交わした兄弟を忘れたか泣き虫三厳」
煙草を吸って紫煙を吐いた。
「うるさい! そのような昔の事いつまでも引き摺るな馬鹿七志っ」
「ほら騒ぐな騒ぐな。またさっきのようになるぞ?」
面白そうに私を煽る姿はそれこそ生きている時の同じ様。
「くそ……っ本当に幽霊なのか貴様」
生きているようにしか思えない。
ああコレは親父殿も戯言と申す訳だ。
自分にしか見えず聞こえず。だが本物としか思えない振る舞い。
「ああそうだろうよ。己も信じられぬが親父殿には声しか聞こえんし、
他の奴は触れることも出来ぬよ」
お手上げして残念そうに言う。
「折角色街で遊ぼうと思ったのに……でも風呂を覗けるのは素晴らしいな。
さっきまで見ていたがアレは――」
ああ……コイツは七志だ。
そう確信してソイツを殴った。
「痛い! 何をする!」
「五月蝿いこの罪人め! 柳生の面汚し!」
「ぷっは。柳生は語っておらぬだろう」
「柳生の自覚があれば覗きや食い逃げで十藩から手配書が出されぬわ!」
「ふ……己も有名になったものよの」
「不・名・誉だがな! ったく……」
爪を噛んで思考するがどうもこの異様過ぎる存在のせいで纏まらない。
「何なのだ……っ供養が足りぬか」
「馬鹿を申せ。己に供養など要らぬ。よもやどこぞの木下に消える命。
土の中に還ったならそれでよい」
意外と真面目に答えられてこちらが少したじろいだ。
「……未練があるか。七志」
「――ふむ。無いと言えば無いし有ると言えば有る」
プカッと煙を吐いて興味なさ気に言った。
「申せ。特別に何でも聞いてやる」
性質の悪い悪霊だと困る。
言う事に何なりと従っておいて消えてもらうのが吉だろうか。
明らかに簡単には成仏してくれない外観だが。
「おお珍しい。主は己の言う事など一つも聞かなかっただろうに」
私の言葉に本当に珍しそうにそう答えた。
そう答えれるのも恐らく七志ただ一人だろう。
「お前の言ってる事が全て下らなかったからだろうが……」
「ぷっはっは相変わらずよな」
「……お前こそ。死んだら馬鹿が治ると聞くがそうでもないのだな」
「ぷっは。違うぞ三厳。己が馬鹿ではないからそのままなのだ。この馬鹿め」
「ええい腹の立つ。いいから未練を晴らしてとっとと逝ね」
「まさに血も涙も無い言い草よな」
「……全く。はぁ……。七志、主が居らなくなって随分と経った気がするがまだひと月も経っておらぬ。
なのに酷く世が詰まらなく見える。どうしてくれる」
言いながら――七志に触れた。
ぴたっと肌に触れて、その暖かさを感じる。
七志……唯一私を深く知る人物。
「だから死んでいる。この身は仮初でな。己は主に会いに来た」
「――っ七志……!」
ああ――感動した。
「主を抱きに来たぞ三厳」
ぱぁんっ!
平手がソイツの頬を打った。
生まれて初めて女である事を後悔したのは、月のものが来るようになってからだ。
酷く気分が悪くなるし、鍛錬も激しく出来ない。
「無理はするなよ。女だろお前は」
そう、七志に言われた事も。
この身を女であると知っているのは七志と乳母と親父殿だけ。
だから余計に辛かった。
何度かバレそうで危なかった場面は七志が何とかしてくれたし、時には私の代わりに体罰を受けたりもした。
酷く申し訳なく、何度も庇う必要など無いと言ったが――
「女の身体に傷を残してどうする」
そう言われた。
それが悔しくて、父上に挑んだ。
私と七志の振り分けに差が有るような事があったからだ。
そして、その結果眼を失う事になった。
だが私はそれを誇った。
コレで女扱いなどされないと七志に胸を張って自慢するつもりで彼と会った。
「馬鹿者!! それではただでさえ居ない貰い手が付かぬぞ!!」
「余計なお世話だ。私は武士だ。コレでもうお前に馬鹿になどさせない!」
「そんなことの為に……か……?」
「ああ、そんなことの為にだ」
「…………」
――七志は何も言わず、私の前を去った。
その日また同じように親父に挑んでボロボロにされていた。
それからだろうか、七志が女遊びをするようになったのは。
修行もせず女にかまけているくせに腕は立つ腹の立つ奴になってしまった。
だが私は知っている。
夜な夜な真剣を持ち、振っていたことを。
毎朝の鍛錬は欠かさずやっていた事を。
私に努力を見られるのが嫌なのだと悟ったのは何時の事か。
馬鹿者が――。
それが、私の知っている七志という奴だった。
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