閑話『十兵衛 後編』



「無礼者……っ」
 震えた。
 羞恥も怒りもあった。
「ぷははっ分かっておるさ。
 ただ、心残りを言えと言ったのはお主だろう」
 カラカラとそいつは笑って、舞う桜の花びらを一枚手に取った。
「戯け! そんなことっっ」
「――まぁ堅物のお前が頷くなどと思っちゃおらんよ。
 ああ。だが一つだけ主を頷かせる方法を思いついた」
「だから! 貴様は人の言うことを聞いているのか!?」
「あァ。怒鳴るな。人が来る――チッ」

 七志が舌打ちをして立ち上がった。
「七志――?」
 私の手を取ってその桜の一片を乗せて握らせた。
「ふん、三厳コレが最後だ。

 死合だ。子の刻、桜の元で――」


 ブワッ――!

 思わず眼を瞑るつむじ風が待った。
 そして再び眼を開けたとき。
 あいつの姿は舞う桜になったかのように消えた。
 手に残るあいつの暖かさ。
 包み込まれたそれは――確かに硬くて暖かいあいつの手の感触。

 ああ、また勝手に消えた。
 本当に猫のように勝手な奴だ。
 日向でごろごろしていたかと思うとすぐに居なくなる。
 諦めた頃にまたひょっこりと現れる。

 決着をつけようと言うのだ。
 私との関係、奴にとっての全てである刀で全てを語る。
 抱くと言うのは女につける彼の終わらせ方。
 剣を交えるのが男につける彼の終わらせ方。
 私を男として。私に向き追うと言う。
 それでいい。
 それでいいが――

『死合だ。子の刻、桜の元で――』
 そいつの残した言葉は酷く、簡素で残酷で――

 桜を握り締めると、一粒、涙が零れた――。




 日が落ちる前に一度寝て、眼を覚ました。
 亥の刻ほどだろうか。(亥=たぶん22時ぐらい)
 眼は冴えていて、熱っぽいため息をついた。
 七志との試合の前。
 一度身を清めに井戸へ行こう――。
 そう思って布団をそのままに立ち上がった。

 春先とはいえ――夜の水は酷く冷たい。
 人の耳に入らぬよう、静かに水を体に浴びる。
 ――その冷たさが思考を冷やし冷静にする。
 ――その冷たさが意志を冷やし冷酷にする。
 動けば小さく軋む体が熱を求めて震える。
 井戸の淵に桶を置いて、何故かふらふらと歩き出した。
 ぽつぽつと水後を残し、足に纏わりつく砂を厭わず。
 清めた後に汚れてまで私は――


 ――月夜に舞う夜桜――。
 その一片が落ちると、白くその光を反射する。
 ただ蒼く影を落とし、赤く淡くその色を見せ付ける。
 その桜を美しいと思った。
 その淡い木漏れ日のような淡い光の中に立つ黒い影に心が高鳴る。
「――」
「――どうした。まだ子の刻には早いぞ三厳」
 姿勢を変えず、ただ声だけ私に問いかけた。
 着物の袖からポタポタと垂れる水。
 雨でもない――星の明るく光る下に、私は唯惨めな姿だった。
 道場の者が見れば化けて出た女幽霊と騒ぎになるだろうか。
 このような時間に起きているものなど、この道場ではもう居ない。
 父上が本殿で書き物をしているだろうか。
 壁を一つ隔てたここにあの方が来るような事はもうないだろうが。

 顔の半分は髪で隠されている。
 だが元々片目必要無い私はそんな状況など構わない。
「七志……」
「おうよ」
 何かを、伝えに来た気がする。
 冷たくなっていく私の意思の中。
 何かが一つだけ、引っかかっている。
 でもそれは言葉にならなくて、今にも熱を失ってしまいそうだ。
 体に張り付く薄手の着物。
 滴る水は更に体の温度を下げる。

「寒い……」


 七志の影が動いて。
 月明かりの下に現れる。
 両目は開かれて、懐かしいその全貌。
「当たり前だろう。三厳、清めたなら何故その足でここに来やがる。
 あー。動くな。よっ」
「うっわっ何をっ」
 ひょいと軽く抱きかかえられて、七志の腕の中に納まってしまう。
「軽すぎるぞ三厳。もっと肉をつけろ。こことか」
「たわっ……! 馬鹿者……っ! この……っ!」
 小声で言いつつ少しばかりの抵抗をする。
 七志がそれを愉しそうに見下ろして小さく笑って歩いている。
 何故かそれが死ぬほど恥ずかしい。
 そのまま井戸に連れ戻されて、足を洗うとまた抱きかかえられて体を拭く布の上に下ろされる。
 何故か抵抗する気は起きなくて、されるがままになる。
「ふむ。しかし三厳。こんなに華奢な奴だったか」
「……知らん。貴様が勝手に筋肉を体に盛り付けているだけだっ」
「ぷっ。確かにそうかもしれん。しかし主はどこまで己に任せる気か」
「……」
「オイ答えろ。このままではさすがに己もだな……」
 振り向けば――そいつが。

 少しだけ拗ねたような。恥ずかしげな、少年のような顔をしていた。
 それを懐かしいと思った。
 私に負けたときの言い訳をしているその時と同じ顔。
 とても懐かしくて。
 白黒だったそいつの顔が今鮮明に色を帯びて蘇った。



 再生される幾多の月日。
 剣を持ち、始めて交わした相手だ。
 互いに目標を持ち、剣を振るった。
 背中を任せられる唯一の相手。
 そんな奴が突然私の前から姿を消した。
 旅に出るだと。

 私を置いてか――七志。


 巨大な喪失感。
 それを埋めるために剣を振るった。
 戦に出た。

 そして――


 化け物に会った。
 五千の軍勢をたった三百で打ち破った魔王。
 かの名は全国を脅かすであろう存在だったが死闘の末に葬った。
 その戦の名を知るものはもう私だけだろうか。
 下関の豪商を殺し、
 弓の天才を殺し、
 王は刀の鬼才と分け命を落とした――。

 命を、賭して。
 ただ私を守った七志。


 彼の旅に寂しいと呟いた。
 彼の死に淋しいと泣いた。

 その当人の服の胸元を掴んで叫ぶ。
「何故……!!

 私の元から居なくなるのだ七志……!!!」

 頬が冷たいのは髪から滴る水のせい。
 だから気にせず彼を見上げる。
 私の片目に見える彼は驚いたように私を見ていた。

「貴様が居なければ……!
 剣に伸びることを忘れてしまう……!
 貴様が居なければ……!
 私が女だということを思い出してしまう……!」

 彼に縋って石畳の上で泣くのは唯の女。
 一向に言葉に出来ないのを奥ゆかしさと言うのならきっとその言葉も女。
 多少傷があって隻眼であっても華奢で白い滑らかな肌は男のものとは言いがたい。
 その姿は戦に出る夫を身を清めて願う妻の姿であろうか。
 そうであったなら、どれだけ幸せだっただろう。
 幼き頃から連れ添ったこの者が――唯一の理解者が伴侶であれば。
 私の人生など丸ごと違ったと言うのに――。

「――三厳」
 低い、男性の声が耳元で鳴る。
 背中と腰に触れる手は、大きくて暖かい。
 私の小さな体は、彼の中にすっぽりと納められる。

「主は女よ。
 己は、生涯一度もそれを忘れたことなど無い。
 親父に言われた。
 主を守れと。
 己の命は親父に拾われたものだ。
 親父にこの命の恩だけは返すつもりだった。

 生涯――守り続けるつもりだった」

「ならなンッ――!!?」

 声を荒げてしまった。
 それを、接吻で止められる。
 体がまるで石のように固まって、何も出来なくなった。
 離れて、フッと笑うと静かに、と、釘をさす。
 何も考えられず、コクコクと頷きなされるがまま強く抱きしめられた。
 水を浴びた体が――熱くなってきた――。
「……己に領主は向かん。
 ああ、だが初陣ではずっと隣に居たのを主は気づいておらぬな」
「ッ!」
 妙に強い歩兵が居たと思えば、こいつか――!
 あの日以来見ていなかったからあの日に死んだのだと思っていた。
「己の批評などどうでも良い。
 主が領主であることに意味がある。
 手っ取り早く主を領主にするのに逃げる以外思いつなくてな。
 旅もしてみたかった。故に機会としては丁度良くてな。
 まんまと逃げ遂せた訳よ」
 自分で自分の言った事に笑って私から離れた。
 ――その、離れる瞬間。
 暖かさが無くなる。
 支えられない不安。

「――寒いぞ、七志」

 再び彼の腕に戻りたいと願う。

「ぷはは。一晩かけて温めてやろうか」
「任す」
「冗談――お??
 なんだいいのか」
「……主は女に恥をかかせる気か」
 何度も言えるか。
 恥ずかしい。死んだ方がマシではないのか。
「ぷっ――。そうさな。無粋なことは聞かんさ――」
 七志に触れられて再び口を合わせる。
 暖かさに安心して全てを任せる――。

 これが女の幸せだと言うのなら、悪くも無い。
 そう思える私はきっと――唯の女だったに違いない――。




















 ――桜舞い散る月の夜。
 夜桜が満月を背負い、微かな風に白く閃く。
 月光が気の輪郭を照らし、その下に立つものも淡く照らし出す。
 時刻は子の刻、真夜中の――木々も寝入る闇の中。
 逢瀬のように見詰め合う男女が月光の元と木の本に立つ。
 互いの手に収まる銀が一度流れるように迸る。
 凛々しく構え、互いを睨む。

 それは極めし者の死との逢瀬――死合いとなる。

 光り閃く事二尺三寸。
 業物、三池典太光世を車に構える三厳。
 父から譲り受けた彼女自身の誇りである。
 無銘、ただその光沢からは気品を感じる刀を持つ七志。
 長き旅で得た彼の自信である。

「身体は大丈夫か?」
「主にも心配できる配慮があったのだな」
「ぷはは。失礼な。なにぶんアレだけあえ」
「五月蝿いっっ! 黙れ!! 馬鹿!!」
「ぷはは! まぁ剣が刺さる瞬間など怖いものだ!」
「良し。殺そう。お前だけは私が殺そう。剣の錆にもしてやるものかッッ!」

「……ふっ」

「死ね!! 貴様!! 今すぐ死ね!!」

「では、渡り合おうか」
 その切っ先をお互いに向けて眼帯をした二人が向かい合った。
 曇り無き表情。
 きっと他人などには理解できない境地。
「お前とは、随分と久しぶりだな」
「久しぶり? 初めての間違いだろう?」
「本っっ当に……お前は私が殺すべきだ」
「優しくしてくれよ?」
「ふ……主がした配慮と同じにしてくれよう」
「おお。成る程ここにそれが関係するか」

「手加減する気など毛頭無い。全力で掛かって来い」
「……応よっ。もう一ついいか」
「何だ」
「己に勝ったら三厳に褒美をやろう」
「ほう? 何を戴けるやら」

「己の名をくれてやる。
 主は三、己は七。
 足せば丁度十になろう。

 そうだな、主が勝ったら――……十兵衛を名乗れ」

「――良し。承知した。
 きっちり貰い受けてやろう」

 狂気の混じった薄い笑顔。
 本人達はそれに気づくことは無いだろう。

「新陰流師範、柳生三厳」
 黒く長い髪を高く束ねて、風に靡かせる三厳。
 線の細い輪郭、切れ長な眼には長い睫。
 薄く紅を引いている姿が余計に彼女を女性に魅せていた。

「同じく新陰流師範 柳生七志」
 桜の下でだらりと腕を垂らす。
 満ちた表情が威圧感を生み、髷のかわりに括られた髪が微かに揺れる。
 世に満ちる侍の――生きていれば流派の開祖にもなれたであろう才が立ちはだかる。

 互いに視線を混じり合わせ、隙を窺って息を潜ませる。
 行動を読み、思考を巡らせ、体で感じる。


『参る』


 タタッっと軽い音と共に同時に駆け出した。
 見合う事に意味が無い。
 互いに恵まれた才能の持ち主。
 死合いに於いて隙など自ら作り出し活路を見出す先手必勝を謳わずしてどの剣を振るつもりか――!

 甲高い風の擦れる音。
 間が触れ合うことなく、空を切る。
 自らの剣が軌道上で重なるのは仕方が無い。
 耳に残る鋼の合わさる音。
 肉を裂かせ、骨を断つ為。
 剣を弾き身を翻し服を裂き風を突き互いが止まった瞬間に巻き上がる風に桜が舞う。

 一撃、二撃と剣が重なり三厳が引けば七志が詰め、七志が引けば三厳が詰める。
 新陰流の武才が閃き合い、激しくぶつかる。
 細かく剣を捌きあい必殺の時を見極める。
 まるで踊るように綺麗で息のあった二人の剣筋。
 銀色の閃光の軌跡を残し、まるで絵のように芸術的。
 愛する者を救う為穿つ為、互いの全力を賭して、人生を賭して。

 雲体風身はその動きの綺麗さにつけられた名である。
 まさに風のように軽く動き雲のように消える。
 完成された三厳の新陰流剣技は惚れ惚れするほど洗練され、美しいものだった。

 力で勝るが技で劣る。
 技で勝るが力で劣る。
 それを補う極めたそれが達人の剣技。

 型をこなし隙を得る。
 隙が出来れば即座に切り込む。
 三池典太光世が残す白い軌跡は曲線。
 無銘名工の残す銀の軌跡は不規則な直線。

 互いに剣豪と呼ばれる実力者が均衡し振られる剣から火花を放つ――!















 長い長い一瞬。
 真剣での戦いは、一太刀が致命傷。
 死への時間全力で駆け抜け長くは掛からない。
 百に満たない打ち合いの結果は――。


「三厳」
「何だ」

 血を浴びて真っ赤な服。
 袈裟に切り裂かれた肩を抑えて、そえれでも剣だけは離すことは無かった。


「主は強いな」
「……眼帯を外してから物申せ馬鹿者。
 だが十兵衛は貰って行こう」
 眼帯をつけたままの七志を見てため息のように言葉を吐き出す。
 七志はそんな彼女に苦笑いをして頷く。
「うむ。己は腕を磨く旅に出るぞ。三厳」
「私も連れて行け」
「断る」
「冷たい奴だな」

「――ぷはは」

 七志の身体が空気に溶けるように消え始める。
 彼のこの世界での終わり。
 新世界で剣を振るための、けじめ。

「七志――私以外に負けることは許さんぞ」
「任せろ」
「心配だ」
「ぬ?」
「私より弱いからな」

 七志が斬られた時より嫌そうに顔を顰めた
 さすがに弱いと直接言われれば不快だろう。
 その表情に楽しそうに笑いかけて、三厳は言う。

「お前は馬鹿者だ。
 自らの有利を嫌うな。
 両目が有る事は何よりの幸福。

 それさえ知っていれば、主は私より強い」

「……はぁ。解った解った。
 まったく。主に心配されるなど落ちたな己も」
「よく言う。心配しかしておらんかったぞ」
「かぁっ。先に言え」
「悪いのはお前だ」
「ぷはは。ああ、悪いのは俺でいい」


 薄く、身体が消える。
 もう最後だと、互いが感じた。
「三厳」

「七志」

 呼び合ったと同時に目を合わせる。
 右目を覆い隠した彼女と左目を覆い隠した彼は鏡のよう。
 その、言葉もまた同じように重なる。

『また逢おう』


 唯それを最後に残し、霧のように消えた。
 何も無かったかのようにその場所に桜が舞い落ちる。
 もうそこには居ないのだと主張するように。


 夢のような時間であった。
 暖かな血の感触も、あいつのつけた足跡も全てが消え。
 残ったのは腕に有る気だるい剣を振るった後の痺れ。
 重なった言葉を飲み込んで、一粒だけ涙を流した。
 これが三厳の見せた最後の弱さ。

 世を先立った愛しい侍との――最後の逢瀬だった。



 以後――世に十兵衛の名が通る――。

前へ 次へ


Powered by NINJA TOOLS

/ メール