第151話『無様』



 痛いっていうのは、肉体に伝わる危険信号だ。殆どの場合は不快であるしそれを避けようとする。あえて苦痛を受けようなんて奴はほぼ居ないわけで、俺自身もそんな人間じゃなかった。
 右側の欠けた羽飾りは両方ともおそろいになり、バラバラになってしまったそれは――ぴしゃりと一つ暖かな血を散らせて頬に付いた。
 近づけもしない。俺は2、3歩を走り出しただけで、その距離に至る事ができなかった。

 フォーチュンキラーは使えない。自分の都合の為だけのモノなのに、神子がいないとなると使えないじゃないかファーナ――。


 途端に訪れる消失感。絶望とも言うのだろうか。混乱した状態なのか落ち着いているのか良くわからなかったけど一言も発する事ができなかった。
 思わず目を逸らしたけれど、結局目の端には映ってしまった惨状。酷い吐き気がした。



「あはっ。いい顔ですね、ワンコ君」

 頭が何かを考えようとするのだけど、ピクリとも動かなかった。ただ、真っ白な焼ききれた思考が流れていくだけ。
 下を見ようとしたのだけれど、どうしても首が動かない。惨状は想像できる気がしたから。
 見るなとも、言われたような気もしたから。

 むせ返る血の臭いが目に重く当たる。量が出ないとこんな風に何処に逃げたって付いてくるような臭いにはならない。かつては、自分が流していたものだけど、決して彼女には流させようとはしなかったもの。やっと見たような赤い破片には、ドロドロとしたドス黒いものがあって、連想するのは掃除のされない溝か何か。

 遅れて、後ろから叫び声が上がっている事に気づいた。
 ファーナの死に叫んでいるのではなく――。同じく目の前で死んだ前列の兵から皆離れ出す。ああ、斬撃が届いたんだな、どこか他人事のように理解してまた前を見た。

 俺の目の前にはおっちゃんが立っていた。ただ背中しか見えなかったけど漠然と俺を怒りに来たのかなとも思った。任されてたのは俺であるし、何に変えても守るべきだったんだと思う。自分の命よりは重い人なんだろうと言う事ぐらいいつも一緒に居たからよく分かっている。
 それよりもこの虚無感は俺に何も考えさせない。本当なら怒るなり、おっちゃんを恐れるなりしないといけないのに何かを考えようとするとかならずどこかでソレが消える。
 おっちゃんはただ背中を見せていて向かっているのはあの二人である。

「大丈夫か」

 不意におっちゃんにそう聞かれた。相手に言っている訳は無いだろうから俺の方だろう。
 大丈夫の意味を必死で噛み砕いて、血も出ていないし何か考えているわけでもないと分かった。

「……い、や……」

 やっと吐いた言葉で、今まで息をしていなかったことを理解した。息をすると凄く生臭い臭いに少し吐き気を覚えた。口と鼻を押さえると息苦しい。ぬるっとした手を離すと、どす黒い血が付いていた。

「……いて……」

 痛い。

 ――痛い。


 体の内側だけど、背中側じゃない。腹の底だけど、腰じゃないぐらいの位置に熱が有る。

 呼吸ができない。



 ガッ


 鉄が頭に当たった。
 死んだ。
 と、思ったけど、そうじゃなかった。

 俺の目の前を覆ったのは黒い鉄。そして鉄みたいに固い掌。

「大丈夫だ。そこで見てろ」


 驚いて、呼吸を思い出した。息を吸って、はいて。喉の奥が痛い。
 なんで――。


「囲め!! 取り逃がすな――!!」



 国王の一言であっという間に軍は相手を囲んで、逃げ道を無くした。魔女も魔王も薄笑いを浮かべた余裕を見せていたけど、やはり圧倒的に国王は有利であるようにみえた。

「あらあら。黙ってみていたのに余裕ですね。お国の象徴でしょう?
 ――貴方の、娘でしょう?」

「ああ、そうだな。神子ファーネリア・リージェ・マグナス様は、戦争の為に犠牲になってしまった……」
「無能なシキガミも差し置いて私たちですか? まぁ、正しくはありますけれど」

「馬鹿を言うな。誰一人として届かなかったんだ。最初に走り出した彼ですらな。

 グラネダに戦争を振りかけて交渉するつもりも無い。最悪はお前達だ。大人しく投降しろ。逃げ道は無いぞ」
「あら、あら。投降したところで、私達の命は安全ではないんでしょう?」
「そうでもないぞ。厳重な封印を施して埋蔵する程度の檻に入れてやる」
「物騒ですわね」
「自分も計れないほど愚かしいようには見えんよ」
「お褒めに預かり光栄ですわ国王様――……折角のお誘いですが、
 お断りいたします」


 国王はそれを聞いてすぐに手を掲げた。そして真っ直ぐ黒い騎士たちへ向けて振り下ろす。


「突撃!!!」

 空気を突き破るような怒声が響いた。その声がこのだだ広い戦場に

『オオオオオオオオオオ!!!』


 声と熱気に大気が揺れた。そして進み出したその大勢の突進に大地が揺れる。殺意の熱気じゃない、それは守る為の意志の熱。その中ですぐに動き出し魔王と魔女は空へと舞い上がった。

 そして狙って降りてきたのは俺。


 何百回、何千回。
 俺が反復した動作は、ずっと剣を抜いて振ることだ。
 それが何の為だったかは、思い出せないけど。
 死ぬのは嫌だったから――剣を抜いた。

 風を切った黒騎士の大鎌は、その軌跡どおりの斬線が飛ぶ。その力は厄介で近づく事もままならなかった前回の遭遇は俺の大敗だった。今回も勝てる気はしない。勝つ意味ってなんだっけ。

 この、空白みたいなのは、なんだったっけ。







 同じように、こんな空白はあったんだ。

 俺はこの世界に産み落とされた、あの瞬間にも。

 自分が死んだのは認めてた。でも、自分が失った事は認めてなかった。
 ああ、俺が生き抜いていく為の理由にしていたものは、俺が先に死んでどこかで生き返ってしまえばそこに居ない。当然俺の生きてた理由が消失したのに俺が生きてる状態は理不尽で叫びたくなる。
 要するに――姉ちゃん。壱神幸菜と引き離されてしまった時のような喪失感。焦って取り返そうとしたけど、俺の世界じゃなかった。

 俺の世界は、崩れたんだ。


 小さい檻だった。自分と自分の見える範囲の小さな檻。その中で御互いを飼いあって生きてきた。語弊は有るかもしれないがそうだ。互いに笑い、互いに泣き、互いに怒り、互いに日々を暮らし――。平和だと錯覚していたんだ。小さな檻の中で満足してた。

 世界が急に広がった。

 誰も俺を知らない世界。誰も俺をなんとも思っていない世界。もっと自由だったはずなんだ。それなのに結局自分で作った小さな檻に纏まろうとしてた。広い世界は怖かった臆病者なんだ――。

 そんなところに居るから、檻から出てしまった彼女を助けられなかった。



 ねぇ。




 何やってんの壱神幸輝。









 虹剣は振りぬくと、同じように斬撃を使える。
 ただそれをすると少し疲労感がある。マナを消費してるんだろうから無茶な連発は出来ない。

 綺麗にその斬撃をなぞって相殺したつもりだったが、生憎と全てとはいかなかった。頬をすうっとメスで撫でられるような痛みがあって、ダラダラと赤い血を流し始める。
 顔の傷は夥しいほどの量の血が出てくる。ぬぐっても仕方ないのでぬぐわない事にして相手を見ていた。
 黒に引き合うのは黒。
 同じように地上高くまで黒鎧の鉄拳王が疾る。あんなにも真っ直ぐ迷い無く。

 俺は止まってしまったのに。

 大振りの拳が空中で殴った相手を横滑りさせる。火花が散り、歓声が沸いた。
 魔女がくるりと空中で翻り、魔王は地上へ落ちてざっと足を滑らせた。魔王を国王が追い、魔女を王妃が率いる法術部隊が引き付け始めた。
 二分してより倒しやすくする為だろう。


 ふと魔女が目に入って思う。

 姉ちゃんは何ていうだろうか。
 笑ったりはしないだろうけど、軽蔑はしただろうか。


 あの人の凄い所は何だっただろうか。
 ずっと前からあの人に倣って生きる事にして。笑って泣いて怒って。
 どんな事があっても、笑いながらでも泣きながらでも怒りながらでも。

 ――生きて、幸せになるんだ。

 そう言って、大丈夫だから幸輝はそのままで、と。俺を助ける。

 今と同じなんだけれど、俺はそう言われるのが大っ嫌いだった。


 物凄い混乱が有あって脳ミソが破裂しそうだった。その中でたった一つの衝動だけを解決するためにすぅっと息を吸った。肺一杯になってはじけそうになるぐらい吸い込んで――爆発するように叫んだ。


「あああああああああああああああああああああ!!!」

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