第161話『天才盗賊』
泉に自分の姿は映らなかった。
鏡のような水面には映し出されるのは月と森だけ。
吸い込まれるように――その身を投じた。
――。
「入水自殺ですか? 面白いですね」
不意をついて泉に入ったが黒騎士のアルゼマインによって片手で吊り下げられたような状態で引き上げられる。
「げほっ……!」
魔女が咳き込みながら半ば引きずられるように泉を出る彼女に近づいた。
「出来ないならやらないでください。見苦しい」
失望した、と蔑んだ目彼女を見る。
「……っ!」
咳き込む彼女を見下ろす。一瞬でも睨み返したファーネリアに忌々しいとばかりに視線を合わせるようにしゃがみ込む。
「国を思うと足が竦みましたか?」
クスクスと笑う。
「仲間を思うと空気が恋しくなりますか?」
どうせ死ねないくせに手間ばかり増やす。面倒以外の何事でもない。
「貴い方を想うと死ねませんよね?」
それが誰のせいなのかも分かる。彼女の彼への異存は口にするたびに出てくる彼の名前で確認できる。
「この無能」
貴女だけで何を成せると言うの?
「意気地無し。死も成し遂げられない意思の貴女には誰かに助けられる価値もありません。貴女の悲劇の茶番になど、誰も興味が無いのです」
死ね無いくせに死のうなどと言うのは
「でもそうですよね、生きないと助けられることも出来ないんですよね? そうやって甘えて生きるんですよね」
彼女が否定しないから詰め寄る。
目の前で、すべての希望を打ち砕いてあげる事に決めた。
「すべて私が否定して差し上げますよ――」
そう言って彼女から離れる。
ただ、彼女は希望を持つその目をやめない。
ぴたっと、何か違和感を感じて動きを止めた。
黒い森も、その黒い世界に、月を反射する泉も、何の変哲も無い。
「……ヘビさん、お連れしてください。
さぁ、皆さんもこんなのお気になさらず休んでください。
お馬鹿な人たちばかりで疲れますが――もう少しです」
これ以上は言葉も無い、という風に魔女は振り返った。ファーネリアはただ唇を噛む。表情は隠れて見えないが、滴る水滴は彼女が泣いているようにも見えた。それでもその唇は、大丈夫、と呟いてほんの少し微笑んだ。
パシャッ……。
泉の端に指が伸びる。波音を立てないように、ゆっくりと泉を出るファーネリアの姿があった。髪の毛がまとわり付くのが不快だった。しかし振り払う行動の一切が無駄になる。
逃げることが出来るチャンス。一瞬である。
どうして姿が映らなかった自分が複製されたのか――彼女にはダルカネルの鏡の力についての詳細は分らないが、これは絶好の好機となるということだけが分かった。まさか、自分に励まされることになるとは思いもしなかった。
「彼が諦めていないのに、貴女が諦めるとは何事ですか。
それはわたくしの意志に応えてくれるあの方がいるのにわたくしが応えない事は、貴女の鏡であるわたくしが許しません。
今苦しくても生きなさい」
水中から見上げた水面に映っていた自分が言った。その笑顔は自分でも見たことの無いぐらい、楽しそうだと思った。コウキと居ればああいう顔をするのだろう。それにしてもよもや自分にすら叱咤されようとは――。
その言葉を受け入れられたのは、常に自分にそう言い聞かせていたから。いつも心折れたわたくしを叱るのもまたわたくしである。
これがダルカネルの鏡の本来の形なのだろうか。鏡に映ったアレは私に限りなく近い私である。
逃げ切る事は自分にはほぼ不可能だろう。
彼女は泉の底を泳いで此処まで来たものの、策は無い。ただ愚直に逃げるのみである。
走り出そうと思った。
その瞬間、不意に眠くも無いのに瞼が落ち始める。瞬時に魔女の仕業なのだと思った。
歯を食いしばって、耐えようとした。
悪あがきでも全力でやることにした。
トンッと目の前に過ぎった金色毛並み。
自分の意思ではないものに体を包まれる。少し赤みのある球体壁。色々、その正体を記憶が探して、また自分は攫われるのか、と情けなくも思ったけれど――。
救われたのかなぁと目を閉じた。
静かに、静かに。
ただ一瞬を見極める獣。
獲物を取るその野性がまだ残っていたのかは定かではないが――闇に潜む獣の目が光る。
闇に紛れる金色毛並み。恐らく世界一優秀な盗賊である。その姿を消し去り、素早く動く事ができる。かつては人間と共に最も人を攫った獣である。焦らず期を待ち、人目を避け、全てを素早く実行する。
その時全てにおいて完璧な仕事をやって見せた。
彼を育てた環境が良かったのか悪かったのかは落ちた船乗りの成れの果て山賊。
いつか見た故郷を夢見る事も忘れ、ただ盗み暴れた盗賊たちに従事し、ただ純粋にその人たちを助ける為に己を磨いた。
気付いた時にはもう引き返せなかった。自分の金色毛並みもくすんで見えた。
奇跡のように現れたその人が。
何故か自分よりも輝いていて。
その理由を知りたくて。
自分も強くなりたくて。
光の届かない茂みの奥から全身のしなやかな筋肉を使って駆け出す。最も素晴らしいのは彼女達にすら盗まれた事に気づかせない事である。だから彼女を眠らせる。その彼女が倒れる前に得意の球壁で囲んで消える。
そして木々を蹴り進んで風のように其処から去った。
ほんの一瞬のうちに彼女を盗み――姿を消した。
自分に出来る事は荷物を持つ事とそのぐらい。
頑張って努力をして届くと言う形じゃない。
それでもあの人が褒めてくれるなら。
この金色毛並みは光るから――。
あの人のように、その瞬間を全力で駆け抜ける。
再び目を覚ました時は、見たことのある天幕の中だった。グラネダの天幕は赤と青の二色が在る。偶数隊は赤、奇数隊は青。自分はこの赤いテントに馴染みが深い。
元々軍は王家を守るものと神子を守るものという意味合いも込め、偶数隊と奇数隊で色分けを行っていた。その偶数隊が自分を守る為の隊であると聞いたときは驚いた。道理で神殿側に出入りする人は赤いラインの制服の人ばかりだったわけだ。とはいえ其処に軍として差が出る訳ではない。王家側守護担当が回ってくる隊か、神子や神官の守護が回ってくる隊かの違いである。軍事行動内容に差異は無い。
そしてその守られるべき対象である自分はこの赤の隊にいつもお世話になっていたのである。
天幕内は簡易ベッドに私を置いて吊り下げられたランプと治療用の道具などがおいてある以外は何も無かった。薄暗く照らされて少し不気味にも見えるが外から聞こえる喧騒にその不気味さは拭われている。
服は簡易な病人用の服だった。ベタベタして嫌な感じだった髪や色々ドロドロに汚れていた私をキュア班が綺麗にしてくれたのだろう。
足を下ろして身体の異常が無いかを確認する。両手両足とも異常なく、少し眠気は取れ切れていないが強制的でも寝たので泉に入る前よりは断然すっきりしている。立ち上がろうとした時に天幕の入り口が開いた。失礼します、と小さく声がして女性のキュア班隊員が入ってきた。
「ああっリージェ様、お目覚めでしたかっ! 失礼いたしましたっ」
「構いません、それより」
「はい」
サッと膝を折って顔を下に向ける班員女性。それに顔を上げても構わないと言ってから状況を確認する事にした。
「この隊は?」
「第二隊、第六隊の混合隊です」
ヴァース隊とカルナディア隊だ。どちらも遠征に出ていた隊だが丁度その隊に救いを求める事ができたという事だ。これは安心してもいいレベルでは在るが、魔女と言う存在が既に安心できない事に気づいた。
「総指揮は?」
「第二騎士隊隊長ヴァース様です」
カルナディアがあちらに取り込まれた――恐らくその影響でヴァースを総隊長と呼んでいるのだろう。自分の事自体は好転したが、その他は已然悪いままである。
「では後ほどわたくしが尋ねるとお伝え願えますか」
「はい、畏まりました」
彼女は頷くと立ち上がった。そこに一度待ったをかける。
「すみませんが、あと一つ」
「あっはい、どのような」
すぐに姿勢を戻してこちらを見上げる彼女に部屋を見回しながら聞く。
「金色毛並みのカーバンクルを見ませんでしたか。わたくしをここに連れて来てくれたはずなのですが」
――ルーメンが居ない。どこか外に出ているのだろうか。それにしてもルーメンがわたくしやコウキといった旅のメンバー以外のところで大人しくしているとは考えづらい。それとも別の何か要因があったのだろうか。
彼女は少し気まずい顔をして目を細めた。
「はい……実は、ここに来てすぐ血を吐いて……倒れてしまいました」
「そ、そうなのですか!? それで、ルーメンは……!」
あの身体で。馬について走ったのだ。それも丸一日である。休憩はあったとはいえあの子犬のような身体の何処にそんなスタミナが存在するのか。コウキならば無理矢理捻出する。いわゆる、無理をする。そして彼を師として慕うあの動物も本当に愚直に彼に似てしまったのだろうか。
そう考えていると急に心配になった。
もしかしてルーメンは――。
「キューー」
愛らしい鳴き声が聞こえる。
入り口から鼻の先を入れてスポッと長い耳が揺れる頭が入ってきた。くりっとした丸い目と自分の目が合って一瞬ピタリと止まった。
「あっこーらっ、入っちゃダメっ」
「ルーメン! よかった。無事だったのですね……」
言うと手で制したキュア班の手を素早い動作で掻い潜ってわたくしに身を寄せると喉を鳴らした。尻尾をはち切れんばかりに振っていて、とても嬉しそうである。
その小さな身体を抱き上げてフワフワの毛を撫でる。どうやらルーメンも洗われたらしく石鹸の臭いがした。
「一応、キュア班で治療をさせていただきました」
「有り難う御座います。ルーメンはわたくしの大切な仲間なのです」
「まさかの奪還の勇者ですね」
「ふふ。これでもシキガミ仕込ですから――ああ、しかし、こうもしていられません。
他着替えられる服はありますか」
「はい。リージェ様の神官服を持っておりますので、届けさせます」
彼女は頷くと今度こそ立ち去る為に立ち上がった。
「お願いします」
「はい、では失礼いたします」
キュア班隊員は素早く立ち去った。キュア班は軍一隊につき一班必ず付き添い、戦場での非戦闘員の治療班として働く。そして軍事の要員ではない間はキュア班は民間の治療にも携わる施設になる。つまりキュア班は軍人だ。公務として治療研究を行い、軍事や医療での先進を行き続けるグラネダを支えているのである。
自分自身も助けられた身である。この体勢で無ければこれほど手厚い治療は受けられなかっただろう。
「ルーメン……ありがとうございます……」
「キュゥーッカゥ?」
ルーメンの円らな瞳がこちらを見上げる。心配してくれているのだろうと思って笑顔で答える。
「ええ。わたくしは大丈夫です」
「キュゥ」
言葉は分からないけれど、感覚で答える。成り立っているような気もするので少し嬉しい。
「きっとコウキも褒めてくれますよ」
「カゥっ」
そう言ってあげると彼も嬉しそうに尻尾をばたつかせた。
頭を撫でたり首の後ろをモサモサと触ってとても和んでいた所に先程とは違うキュア班の人が着替えをもってやって来た。
そのまま満面の笑みで迎えた所、お元気そうで良かったですといわれてしまった。恥ずかしい……。
着替えも終わり、ヴァースのところへ行こうと思ったところで、当人が先に此方に来てくれた。着替えを待っていてくれたらしく、呼ぶとすぐに天幕に入って来た。
自分よりずっと背の高いその人が天幕に入るとこの天幕は小さいのだな、と思えてしまう。身体の大きさもそうだが存在感もこの中に入りきっていないような気がする。金色碧眼の白金の騎士、ヴァース・フォン・サクライスが膝をつくことでこの空間は元の大きさを取り戻した。
「リージェ様、良くご無事で戻ってくださいました……!」
「ヴァースっ! 有り難う御座います……その、早速ですがカルナディアの件は聞いていますか?」
ヴァースは一瞬眉を動かしたが、キッと鋭い目になって頭を下げる。
「はい、申し訳ありません、自分が止めていればこんな事には……」
「いいえ。貴方を責めたりはしません。むしろよく兵を引いて戻ってくれました。
わたくしは本物ですが、ルーメンに攫われるさいに偽のわたくしを用意しました。
彼らは彼女を使い、まだ進行を続けるでしょう
明日には六天魔王はグラネダに到着するでしょう」
「明日……!?」
バッと顔を上げて、こちらを見たのでゆっくりと頷く。
「崖上からの道に切り替えたのです。どうやって降りてくるのかは分りませんが、道が繋がっているものと考えた方が良いでしょう」
「そうでしたか……こちらも急いでグラネダに戻りましょう」
「この隊で戻ると、どのぐらいで戻れますか?」
「恐らく明日一番で出て――昼頃にはつけるでしょう」
眼を閉じてその進行を彼が言う。
「それだと恐らく戦いは始まっていますね……。
数名、わたくしと共に早く戻る騎士を手配していただけますか」
状況を伝えなくてはいけない。グラネダが出陣してしまう前にわたくしの帰還があれば――。こちらの戦いだけで終わらせる事ができる。
ヴァースはしばらく眼を閉じて考えて意を決してこちらを見た。
「……では私が」
「ええっでも貴方にはこの大勢の隊員が」
兵にして千は居るだろう。この大勢を隊長無しで動かすのは如何なものだろうか。
「兵は貴女を助ける為に居るのです。
貴女を攫った魔女は神出鬼没と聞きます。また現れない保障はありません」
並みの騎士では真っ二つ。あの攻撃のせいで自分のしていた羽飾りも壊れてしまったし、散々あの強さには苦汁を飲まされた。
戦場でのヴァースの強さを知っている訳ではないが、隊長として立っている彼が強くないわけが無い。騎士中で言えばもっとも長く知っている、兄のような騎士である。
「そう……ですね……ですが、この隊は?」
「大丈夫です。スイマールや他にも優秀な騎士隊員が指揮を執っています。それに――」
「それに?」
懐かしい笑みを見た。彼が優しい笑みを見せるのは久しぶりである。
「総指揮は、意外と暇なんです」
貴方がそれを言ってしまうのはどうなのでしょう。
それが本気だとは思えないけれど、彼なりに精一杯おどけたのだろう。
少し驚いたけれど、彼が先に自分で笑ったので自然と笑えた。
「まぁっふふ、なら心置きなくお願いしますね」
「お任せを」
そう言って手を取ると頭を下げて立ち上がる。
それは騎士として洗練された動作である。
「貴方にはお世話をかけてしまいます」
「私の役割ですから」
そう言って口の端に笑みを残したまま、用意をしますので少々お待ちくださいと一度深く礼をして、天幕を後にした。
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