閑話『ソラの記憶 後編』

 ――感心できるほど、彼は術陣の罠だけは避けて通り、
 本当にあっさりと敷地の外まで来てしまった。
 わたくしたちを押していた風は緩やかになり、ゆっくりと歩き出していた。

 後ろを振り返る。
 二つ目の山の頂上に差し掛かった。
 そこは自由。あの領域の外。
 束縛を逃れた、鳥かごの外。
 ついに、自由に飛び回る事が出来る。
「――あは、っはははっ!」
 うれしくて、つい笑う。

「どうした?」
 前に居たウィンドから声が聞こえた。

「あはっはは……っ」

 少し泣けてきた。
 遠くに着たからだろうか。

「今なら戻れるぞ?」
「……戻ると、もう二度とあそこから出る事は出来ません」
「……そうか」
「ええ。だから、有り難う御座いますウィンド。
 貴方の手助けが無ければ、わたくしはずっと鳥籠に囚われたままでした。
 わたくしのお願いは、此処までで叶いました。
 後は貴方のお好きなように行動してください」
 ばれないように涙を拭いて、彼を振り返った。
 面食らったようにこちらをみて首をかしげた。
「え、あ、ああ。そうか、抜け出せばよかったんだっけ」
「ええ。道中モンスターなどにお気をつけてください」
「…………え゛!?
 も、モンスターってなんだ!?」
「えっモンスターをご存知無いのですかっ」
「いや、分かるといえば分かるんだが、居るのか!? 襲ってくるのか!?」
「はい、当然居ます」

「此処……いや!

 この世界は、何なんだ!?」


「……?
 世界の名でしたら、プラングル、といいます」

「プラン、グル? 地球は? なぁ、此処は、日本じゃないんだよな?」
「ちきゅう? にほん……? 聞いた事の無い地名ですね。
 恐らくわたくしの知る地図の上には存在しません」


 絶句して二歩ほど後ろに下がる。
 かなりショックだったらしい。
 悪い事をしてしまったようだ。
 どう言葉をかけようかと一瞬だけ考えて、素直に彼の言葉を聞いて見ようと思い立った。

「――危ない!」

「えっ――!?」

 バサァァァッッ!!!

 不意にウィンドに押されて、思いっきり後ろに飛ばされる。
 ゴンッと木の幹で頭を打って、一瞬気を失いかけた。
 頭を抑えながら、ウィンドのほうを見る。

『グガァァァァッッ!!』

 鳥――?
 いや、ファリブルバード!
 全身が黒い大型の怪鳥で大きいものだと人の大きさと同じぐらいの体長がある。
 ウィンドをおそっているのはウィンドの半分ぐらいの大きさだがそれでも大きい――!
「だっ! こらっ! デケェなお前っ!! イタッ!!」
 ウィンドがくちばしや爪にいいように傷をつけられている。
 大きさの割りにはすばしっこいので中々彼の素手の攻撃は当たらない。
 空中に逃げられるとリーチの無い素手は一番不利になる。

 彼の肩口には服が裂け、はっきりとした切り傷が出来ている。
 黒い衣服の下に着ていた白いシャツが見る見るうちに真っ赤に染まっている。
 ――あんな鋭いものに頭を狙われたいたのだ。
 頭を打った程度で終った分、運がいい。

「加勢します!」
 ぶんぶんと頭をふって、右手を前に構える。

「収束:40 ライン:右腕の詠唱展開!

 術式:空気固着<スタルスタップ・エア>!!」

 パンッッ!!

 空気の爆ぜるような音がして、その怪鳥の周りに終結する。
 バタバタと暴れる怪鳥は程なくして地に落ちた。
 その後も尚飛ぼうと羽をばたつかせる。
「お、おお!! すげぇ! 何だこれ!? 魔法!?」
 こちらと鳥を交互に見てものめずらしそうに言うウィンド。
「魔法ではありません! 法術です! 早くしないと解けてしまいますっ」

「はっはっは! よォし……覚悟しろよクソ鳥ィ……!!!」

 ミシミシと拳を握る音がした。
 ――聞こえた。
 空気がそこに向かって質量を高める。
 圧倒的な緊張感に息が詰まる。

 周りに居た鳥達がいっせいに飛び立って逃げた。
 天変地異が起こるみたいな予兆。
 でも、ここにあるのは怪鳥と拳を握る彼。

 ぐるん、と身体を半分回転させた。
 怪鳥も彼に気づいて、奇声を上げて嘴で彼に襲い掛かる。

 思えば、何故彼がわたくしにナイフを求めなかったのかも疑問だった。
 それは彼がそれを必要としない人だったから。
 武器は必要なかった。
 彼はその素手が武器である人だった。

 大きく振りかぶられた右腕が――弧を描いて上から下へ。
 怪鳥の脳天に目掛けて振り落とされる鉄球のように見えた。



 ミシッッ!! ズドォォォンッッ!!!



 可哀想だ、そう思う暇も無く怪鳥はマナへと帰した。
 ――彼の目の前には、その衝撃のせいで薄く地面が削れていた。

「――うしっ」

 剣ではなく、その拳で。
 モンスターが殴り倒される瞬間など、生まれて初めて見た。
「あ、貴方は……! なんという無茶を」
「ああ? なんかダメだった?」
「す、素手でなんて無茶でしょう普通!?」
「いや、おれ喧嘩慣れしてっから大丈夫だって!」
「初めてモンスターと戦ったのに!?」
「今のは殴るっきゃなかったろ?」
 ……滅茶苦茶だ。

「それより今のはマジ助かった。サンキューな!」
 彼が手を握って嬉しそうに上下する。
 あ、ああ、そうか、一応援護はしたんだった。
「いえ、そのわたくしも助けられましたし。
 木で頭を打って少し痛いですが」
「うおっごめん!
 あいついきなり飛んでくるんだもんな。
 流石に焦った。傷がイテェ。どっか病院ねーかな」
「病院という大きなものを探すならこの道を戻ってマグナスへ。
 きっと検問で引っかかってしまうでしょうから……ああ、そうだ、わたくしのコレを持っていってください。
 アルフィリアに頼まれたといえば、王座まで通され治療を受ける事が出来るでしょう。
 わたくしはルアン方面へ向かったとお伝えください」

 手早く説明して指輪を渡す。
 これはわたくしの為にもらった王家の石。
 ウィンドなら追いはぎにあっても追い返すであろうし、何より素直な風に好かれている。
 目の前の道をルアン方面に戻るとマグナス、ノアン方向に行けばミランの街があるはずだ。
「ま、まてよ。あんたはどうすんのさ」
「わたくしは……人を探さねばなりません。
 この世界の何処に居るのかは分かりませんが……それでもどうしても探さねばならぬ人です……」

 少し、疲れたのだろうか。
 ふらっと足元がふらついた。
 あまりなれた靴でないもので長く歩いたせいか、足も酷く痛い。

「お、おい、大丈夫か?」
「大丈夫です……では」

 きっと頭最後にを打ったせいだ。
 妙に高等部がじんじんする。
 今日始まってここからの課題は多いのに――

 自分の記憶は、そこで途切れた。



















「…………」
 目を覚まして、見慣れない天井を見た。
 自分の部屋なら天蓋に覆われて鳥籠の中に目覚めたと自覚するのに。
 清潔そうな白いシーツ。
 簡素なベッド。
 ……どこかの診療所だろうか。あまり部屋は広くない。

 空気は澄んでいた。
 木がこんなにも近い。
 少しだけ空いていた窓から心地よい風。
 風に揺れる草木、自然の匂い。
 何処からか聞こえる子供達の遊ぶ声。
 街の喧騒――。

 ――ああ……。
 求めていた世界。


「あら、お目覚めですか」
 起き上がったわたくしをみつけて、看護役の恰幅のいいおば様が歩いてきた。
「ご気分はいかが?」
「はい、大丈夫です」
「そうですか。それはよかった。
 汗を拭きますから、窓とカーテンを閉めますねぇ」
 そういって窓を閉めてシャッとカーテンを引く。
 少し温めのお湯で絞ったタオルを一枚貰って、それで顔を洗う。

 気分がだいぶスッキリした。
 服を脱ぐとさっと手馴れたように身体を拭いてくれた。
 そうか……そういえばこれからは自由にお風呂に入る事もできない。
 香水なんかも買わないと……。
「も、申し訳ありません、わたくしお金も払ってませんのに」
 外ではそれが常識と聞く。
 宿や診療所となれば料金は先に払う事が多いのだとか。
「いいえぇ。いいんですよ。
 私たちは助けられた身ですし、小さな村でこのぐらいのお礼で精一杯ですが」
 助けられた?
 何を言っているのだろう……?
「あの、わたくし何かしましたか?」
 わたくしの問いに少しだけ間をおいてすぐに気づいて声を上げた。
「あぁ〜、そういえば御気を失っておられたのでしたね」
 やぁねぇ私ったらなんていいながらタオルを再びお湯につける。
「お連れの方が貴方を連れてこの村にやってきた時、丁度モンスターに襲われてましてねぇ。
 夜更けで助けも呼びに行けず……、
 この村にはあまり若い人も強い人も居なかったのでもうダメなんだと思っていたんですが。
 なんとお強い方ですね。素手で追い払ってしまいました。
 私たちはもう必死でお礼を言ってたんですが、

 “そんなことよりおれの恩人が死に掛けてんだ! 医者は居ないか!?”

 ですって!
 もう急いでこの診療所をあけて治癒を施しました」
「そ、そうだったんですか……」
 嬉々として語る看護役に赤面した。
 どうやらわたくしは彼にまた助けられたらしい。
 若いっていいわぁなんていうおば様に顔を向けられない。
「うふふふ。勇猛で、逞しい方ではありませんか。
 あの方も傷だらけでしたのに、自分はいいから、とずっと貴女を気遣っていましたよ?」
「お、恐れ入ります……」
 は、恥ずかしい……!
 なんでこんなに恥ずかしいのかよくわからないけど凄く恥ずかしい。
 侍女十人とお風呂に入って全てを任せてきたけれど今の話を聞いてることより恥ずかしい事はなかった。
「あの……もし、違ったらごめんなさいねぇ?
 お二人は、逃避行中かしら?」
「どっ何処を見たらそう見えますか!?」
「あらぁ、いえいえねぇ、若くて身なりのいいお嬢さんですし、少し気になってねぇ。
 でも、ご心配なさらずに。私は応援しますから。ふふふふふっ」
「ち、違いますっわたくしとウィンドは、そんな、関係ではっ、ない、ですっ」
 驚くほど言葉が上手く出てこない。
 おば様は優しく微笑んで身体を拭く作業を再開する。

「手を失礼しますね」
「はいっ」
 城ではいつもだったので慣れているが外でもやってもらう事になるとは。
 なんとなく苦笑して言われるままに手をだす。

 バタンッ


「アルフィリア! 服貰ったしコレでも――」



 裸を見られる事。
 それ自体は多かった気がする。
 メイド達はわたくしの全てを任されていたから。
 視線には慣れていると思っていた。
 此処に来て初めて、そういえば男性に見られたことは無いと気づいた。

 全くの無防備であった。
 一切の下着を着けては居ない。
 元々寝るときはそんなものだが――現状、隠してすらない。
 完全なる油断だった。
 見る見るうちに赤面するわたしと彼。
「きっ」
 最初の一言と同時に身体を覆った。
 初めて叫ぶ意味に気づいた気がする。

「キャァアアアアッッ!!」
「うわああああああ!! すまんっ!!」







「いいですかウィンド!!
 レディの部屋にノックもせずに入るとは何事ですか!!
 常識でしょう!? 貴方はそんなことすら知らなかったと言い張るつもりですか!?
 ありえないです! 変態っエッチ!
 確かに助けて頂いて感謝もせねばならないのですが貴方がそんな不誠実な行動に……」

 床に正座するウィンドにくどくどと言い続ける事数十分。
 いい加減ウィンドも反省しただろうと彼を向き直る。
 朝からこれでは素直にお礼も言えない。
 服は彼が頂いてきたという旅人用の服だった。
 思ったより着心地はいいしセンスも悪くない。


 ……出会って本当に間もないのだけれど。
 自分は彼を疑ってばかりだったけど。彼はずっとわたくしを助けてくれた。
 城に居たならば騎士にした。
 それだけ勇敢で立派だといえる。
 だけど、今のわたくしには栄光を与える事が出来ない。
 精一杯のできる事。

「……有り難う御座いますウィンド。
 貴方には沢山助けられました。
 そ、その、よろしければ、ですがっ。
 これからわたくしの行く旅に付いて来てはいただけませんかっ
 その、外に出るのは初めてで、信用できる方、というのが皆無で……
 貴方なら大丈夫だと――」

 俯いた彼の様子がなんだかおかしい。
 なんだろうと彼の様子を覗き込む。

 ……寝てる。


「………………」


「…………」


「……」



「ウ・イ・ン・ドーーーーーー!!!」





 パァン!
 初めて全力で平手を打った。
 振り切った腕から景気の良い衝突音。
 
「いてええええ!?」
「バカーーーーッ!」

 余りの恥ずかしさに診療所を走って出る。
「あらぁ、お出かけですか?」
 シーツを干していたおば様を振り切って当ても無く走る。
 ああもう、恥ずかしい、恥ずかしい! はずかしいいい!
 今日は人生で一番恥をかかされた。
 もう死んだ方がマシだっ。
 割と本気で半べそになりながら見知らぬ村を走る。


「アルフィリア! 待てこのっ!」

 村を出る前に追いつかれてウィンドに捕まる。
「い、嫌ですっ離してくださいっエッチ! へんたいーっ」
「うるせー! こっちは意味不明な上にイキナリたたき起こされるしバカやら変態やら呼びやがるし!
 ちゃんと説明しやがれっ」
「貴方が説明中に寝るからでしょう!?」
「説教なんざ聞かん!」
「放しなさい〜〜っ」
「全部言ったらな」
「貴方は! レディに対する対応がまるでなっていませんっ!
 なんですかっわたくしはネコですかっ!
 担ぎ上げるなんて失礼にも程がありますっ」
「逃げるだろっ」
「貴方がっ失礼すぎるからですっ!
 もう放してください!」
「だからちゃんと言えっ」
「貴方に言う事などありませんっ」
「ホントか?」
「ほん、ホントですっ!」
「なんで詰まるんだよ」
「あげあしを取るなんて卑怯ですっ!」
「とっておかないと逃げるだろいろんな意味で」
「ずるいですっえっち! 変態! バカー!」
「おうさ」
「ウィンド!」
「なんだよ」
「数々の非礼無礼! 実に許しがたいですが一つ条件を呑むのなら許してあげますっ」
「ああ? なんだよ」

「わたくしの旅に付き添いなさい! それなら全ての非礼を許しますっ!」

「なんだ。いいぞ。元々そのつもりだったし。
 危なっかしいもんなアルフィリア」

「さもなく!
 ば……
 え、あの……
 その……
 な、長い旅かもしれませんよ?
 わたくし、凄くわがままですし、
 その、迷惑ばかりかけてしまいますし……」

「はぁ、謙虚なんだか横暴なんだか。
 どっちなんだよ?」

「お……」

「お?」

「お願いします……」

「おう」


 ようやく自由になって顔の熱だけが残る。
 ああ、もう……。
 もう……っ!
 何でこんな素直じゃない自分。
 どうしたんだろうか。
 明らかにオカシイ自分。
 きっと新しく始まった世界だからその余韻。

 ウィンドに連れられて診療所に戻る。
 今日はもう一日大事をとって此処に泊めてもらえるらしい。

「いやぁ、若いっていいですねぇ」
 その言葉に卒倒しかけた。
 熱い。
 借りていた部屋に戻ってベッドにもぐった。
「あー……拗ねてるんで気にしなくていいっすよ」
 拗ねてませんっ。
 心の中でそう反論しておく。
「あらあらぁ。
 そうだわ。そろそろお昼ですから用意しますね。
 もう少しお待ちくださいな」
「あざっす」
「ふふ、ちゃんとご機嫌取りするのよ?」
「うえ。了解ッス」
「やーいいものみたわぁ――」


 全部聞こえた。
 意地でも起きあがるもんか。
 ウィンドが部屋に入ってきてイスを引いて座った。
「メシだってよ」
「……」
「しっかしあのおばさん実におばさんだよな。
 気はいいんだけど時折邪魔くせーっつうか」
「……」
 なるほど普通はそうらしい。
 なんとなくメイド達は噂好きだしそれが歳を食えばそうもなるということだろうか。
「あとあれだ、ちょっと質問があったんだアルフィリア」
「……?」
「アルフィリア……なんかなげーな。
 なんかあだ名と無かったのか?」
 言いづらそうだなと言う度に思っていたが彼からそう言ってきたことに少し驚く。
 なんとなく、そのまま呼び続けそうな感じだったから。
「……あった……」
「おお。なんて呼ばれてたんだ?」
 目より上だけ布団から出して彼を見る。
 イスに座って真っ直ぐこちらを見ていてすぐに目が合ってしまった。
「別に、呼び方なんて好きにしてくれればいいです」
「つってもなぁアル? いや、なんか男くさいよな?」
「そうですね。アルは男性名です。
 わたくしはアリーでした」
 もっともお母様しかそうは呼ばなかったけど。

「じゃぁアリー。ああ、そうだな。似合ってる」

 こう、純粋にそう言うからこちらが照れてしまう。
 布団があったからそれに顔を隠しながら話を続ける。
「……有り難う御座います……で、質問というのは?」
「ああ、そうだアリー。
 探してるのって、どういうやつなのか聞いとこうとおもって」
「……そうですね。
 貴方には色々話さねばなりません」
「ん? 目的の奴とかだけじゃないのか?」
「ええ。神子とシキガミについてのお話をご存知ありませんね?」
「先にそうくるかよ。しらネェけどさ――」



 ウィンドに、自分の負った使命を話す。
 本当なら、誰も信じてはくれないような話を素直に頷いて真っ直ぐにわたくしを見てくれた。
 ウィンド――。
 彼がわたくしのシキガミなら、どれだけ安心できただろう。


「そうか……大変なんだな。できる事は手伝うぞ」
 優しい顔で不器用にだけど暖かい手に撫でられる。
 話して初めて真面目に聞いてくれた人。
 お父様にも、お母様にも夢だと。言って。
 毎日毎日気が狂いそうなほどわたくしは啓示の夢にうなされて。

「はい……っ有り難う御座います……っ」

 死を纏う使命。
 鳥かごの中で飛べずに死んでしまうなら、一度でもいいから外で大きく羽ばたきたかった。
 扉を開けて羽をくれたウィンド。
 わたくしは、彼にどれだけの感謝を捧げればいいだろう――。

「で、それって誰なんだ? どんな奴?」
「分かりません……姿形は分かりませんが、

 名を、カザミ・トオルと言うそうです。

 途方も無いですよね……」

 姿も分からぬ人を追うなんて。
 わたくしがそういうと、ウィンドはキョトンとした目でわたくしを見ていた。
「どうしましたか……」
 例えば、そう、自分だけ真実を知ってしまったような瞬間。
 何を言おうかとウィンドは頭を掻いた。

「ああ……いや、うん……その、

 今日散々言われているが多分コレを言うとまた何ぞの罵倒が増えそうだ。


 おれがその、風見透<カザミ・トオル>な、んっ!


 イダダダダダ! 噛むな! 噛み付くな!」

 おでこに置いてあった手を取って思いっきり噛み付いた。
 固い。黒パンなんて目じゃない固さだ。
 手を引いて逃げたので言葉で追いかける。
「嘘つき! 馬鹿! 何故今まで黙っていたのですっ!」
「これでも一生懸命英語喋ろうとしたんだぞ!?」
「知りませんっっ! 知らないですっ!!


 もう馬鹿! ばぁかぁーーーーー!!」




 不安だった。
 ただひとつ、守ってくれる人に出会えない事が。
 恐かった。一人で世界を旅する事が。
 だから。
 嬉しかった。
 優しい人。ウィンド。彼に出会えた事。
 心を許したせいで我侭になった自分にも、変わらず接してくれて。
 ぐしぐしとやっていたらまたおば様にからかわれて。
 ご飯を食べてゆっくりして。

 次の日から。私たちの旅が始まった。








 ――もう何年も昔。
 なくなっていた記憶。
 少しずつ、それが蘇ってくる。
 それが何を意味するのか。

 それを理解するには事が起きなければ分からない。
 なにせ自分達がその先駆なのだ。
 夜に少し目を覚まして、またその事を笑い話にしようと眼を閉じた。
 なんとなく笑えて頬が緩む。
 楽しいと感じながらまどろみに飲み込まれる。

 今はずっと一緒のあの人へ。
 ずっと守り続けてくれているあの人へ、感謝を。

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