第237話『世界に挑む扉』

 今視界に入る限りこの世界に立ち並ぶのは俺を含めて十一人と一匹である。
 焔と紫電と氷と黄金の神子とシキガミ、そして竜人と賢者とカーバンクルと――、目の前に立ちはだかる竜である。

「近づかないで!!
 お母さんじゃないっあたしはドラゴンよ!」

 アキの言葉をその人は間髪居れずに否定した。
 俺達の言うシルヴィアとはシルヴィア・オルナイツであるし、アキの言う母とはシルヴィア・リーテライヌである。実は此処には差異があって、俺たちはアキの母親を知らないし、またアキも若かりし日のシルヴィアを知らない。絶対に交差する事が無い人物線がここにあった。
「恥ずかしがるなよー」
 俺の言葉に噛み付かんばかりの剣幕で怒鳴り返してきた。
「恥ずかしがってない!

 あたしはドラゴンなのよ!

 もうシルヴィアじゃない!」

 じぶんの胸を叩いて彼女は言う。実際空気は何か違うものがあった。それでも言動と記憶があるのなら彼女は彼女である。俺が丁度似たような状態だった。

「確かに俺達が見てたシルヴィアとは何か違うもんな」
「身の発達が色々足りません。外見はこっちに居ますからね」
「うるさいクソエルフ! 大きくても普段いいこと大して無いんだから!」
「そうですね。大きい意味では貴女ではないというのがわかりました。
 では貴女は誰でしょう?」
「あたしはドラゴン!! あたしが世界一強い銀竜よ!!!」
「ほう? 世界一強い銀竜様が今肉の塊になってませんでしたか? よもや人に負ける強さで世界一を名乗ったと?」
「あんたねぇえええ!!」

 ピキピキと青筋が順調に浮き上がっていく。この二人は本当に仲良く喧嘩出来るなぁ。
 俺があまりにいつも通りなやり取りの二人を傍観しているとファーナがそこに割って入った。確かに俺が入ったりしたら話があみだくじ状に縺れてしまう。結果は運次第。
 話を整然と進めるのならヴァンかファーナが一番である。

「それはシルヴィアの意志ですか、それとも嫌悪ですか」
「あたしの意志に決まってるじゃない!
 あたしは竜! この世界で、誰よりも誇り高いの! 強いの!
 あんた達とはもう違う!」
「シィル、俺なんか戦女神殺しだぜ」

 あれは命名じゃないはずだけれど俺の名前は戦女神殺しで恐れられてしまっている。

「あたしが弱いって!? サシでやる!?」
「違うよ。今のシィルが変なのは、特に気にならないって言ってんだよ。シィルは優しいなぁ。気を使ってくれてるし」
「ばーーーーっかじゃないの!?」
「今のシルヴィアはアキを産んだ肉体ではありませんし、わたくし達と旅をしたシルヴィアでもありません。
 ですがこう考えてはいただけませんか。
 わたくし達は今のあなたを見て言葉を投げかけているのです。
 以前見た目はアキでした。しかし貴女が紛れも無くシルヴィアだと断言できます。
 記憶が伴うのならば答えて下さい。貴女はわたくし達と旅をしたシルヴィアなのでしょう?」
「それはそうだけど、違うの!」

 頭を両手で押さえたまま振る。長い髪がバラバラと腕に掛かっていたが気にする様子は無い。
 彼女は言葉を纏めるのが上手くない。言葉より手が出る脳みそ筋肉隊に所属している。
 俺とシィルは実は非常によく似ていて、俺の方がちょっと器用だっただけと言う感じだ。その代わりシィルの方が勘が良いし行動は一貫している。答えを出す時はほぼ直感で、反射神経で答えを喋る。
 あの人はただただ素直に生きているだけ。立ち行かなければ愚直にぶつかるだけ。

 彼女は泣きそうになりながら顔を上げた。
 そんな彼女の目の前にアキが立っていた。

「お母さん」
「あ、あたしは……」

 アキから目を逸らして両手を見る。
 そしてやっぱり泣きそうな表情のままぷるぷると頭を振った。

「お母さんです。シルヴィア・リーテライヌ。
 わたしはそう思います」

「みんなバカじゃないの!!」

 それは訴えるような言葉だった。
 彼女は声は俺たち全員を驚かせた。
 アキは自分の母親の目の前に立ってただ不思議そうにその姿を見た。夢であった事があるとは言ったがその言葉は寂しそうだった。その感触は夢と一緒に消えておぼろげになる。夢は夢でなくてはならない。正しく記憶には残らなかった。
 互いに同時に存在しなかった人格。シルヴィアとアキ。対峙する姿はまるで姉妹だと思った。生まれ変わっているから若いままなのかもしれない。
 シィルはうろたえていた。
 気まずい時間が少し流れて、意を決したように彼女は話し出した。



*竜

 この世界における竜とは、第三位神格の神に管理されない独立種族である。
 四位以下世界に時折干渉するが元々の生まれ世界だった世界の世話を言い渡されているだけ。明確な管理条件も目的も存在しない。
 故に竜人という地位を人間に渡した。有る程度の力を貸すことで世界の管理をその人間達に任せた。竜士団はその管理を言いつけられた兵である。
 しかし朧気な管理の下に目標は見えなくなっていった。竜士の力は世界の管理とは別の方向へ動き出した。
 戦争を管理する彼らは世界を歩き――戦争を起こした。

 最初に彼らが取った管理方法とは。定期的に戦争させて疲弊させる事で長期的に大規模な戦争をしないようにすることだ。
 磨耗と衰退、戦争が継続不可能になれば自動的に終わる。竜士とは、死神でしかなかった。

 その在り方を変えたのは――黄金の竜士トラヴクラハである。

 戦王の双眼にはその愚行は見えていた。
 竜士団はその後今までとは打って変わって英雄の一団として扱われるようになる。

 シルヴィア・オルナイツはその背中に本当の竜のような大きさを覚えた。
 愛すべき大きな人と感じた。感情の操作を解かれて、初めて感じた感情はきっと恋だった。

 燃えるような恋をした。
 好きだ好きだと言い続けても相手にはしてもらえなかった。
 アリーに言われて試してみた謎の色仕掛けも一笑に付された。酷く傷ついた。
 考えても考えてもやっぱり好きだったからそういい続けた。ゼットも呆れるぐらいに。

 あたしには野望があった。
 死ぬほど可愛い赤ちゃんを産んで、最強のお母さんになることだ。
 よくわからんと笑われた。

 愛する人との間にあたしによく似た死ぬほど可愛い子が生まれたけど――最強のお母さんにはなれなかった。

「アキ……あたし……あたしね、竜に食べられたの」
 そう言われたアキは静かに頷いた。
「あたし色んな事が思い出せるの。
 ウィンドやアリーの事も、もちろんアキやトラ様も、コウキもファーナもクソエルフも……!」
 覚えていた。当然。あの記憶はあたしのものである。当然コウキ達と旅をした分も合わせて。
「うん」
 アキは頷く。
「この世界は退屈で、たまにやって来る人を玩んで、強ければ竜として産むの。あたしみたいね」
「うん」
「あたしね、竜だけど、それが凄く嫌だった。本当に嫌だった。
 ……見るのも嫌だから見ない事にして、アキの神様のフリをする事にしたの。
 竜は神格だしね。ちょっと加護するぐらいはできたの」
「やっぱり、おかあさんでした」

 アキは笑う。
 違う、違うのアキ……!
 色んな言葉が心の中で飛び交う。特に強い竜の言葉は、どす黒く目の前の人間を罵倒していた。母親の言葉が今すぐ抱き付いて謝りたいという。誰かが正しくあれと均衡を保とうとする。竜であるのが正しい。竜であるのが正しい。竜であるのが正しい。竜であるのが正しい。竜であるのが正しい。
 喰え――。

 それは駄目だ!!
 割れそうな頭をブンブンと振って、視界を戻す。シルヴィアの思考になった。
 竜化は人にとっては汚染だ。それでもこの世界で一番正しい生き物だ。強いだけ。意味があって力を示す以外の事はしないだけ。

 この世界の正しいはこの子たちには適応できない。人だからだ。
 同じ姿になれるのはあたしがまだ竜として完全ではない為だ。

 はぁ、と息を吐く。火を吐きそうなほど熱いため息だ。

「でも、アキは、竜世界に来た」

 竜世界には竜世界の掟ややり方が存在する。
 それはあちらの世界に比べればずっと乱暴で純粋なままだ。そのかわり竜の体は大きく力は強い。本来なら人とは比べるべくも無い。

「あたしにはどういう結末になるか考えたわ。

 アキは食べられちゃう。

 これから先ずっと竜と会い続けるんだから」

 そんな事をこんな場所でずっと考えていた――。
 手が届かない。神故に正体もあかせず、竜のプライドと鬩ぎ合いながら延々と考え続けた。
 血を吐きそうだった。喉を熱くしたのは炎であるが。

「……お母さん……」
「それなら、それならあたしが!!」

 苛立ちに任せて赤竜を食いちぎりながら悩んで、悩んで至った結論がそれである。
 乱暴な結論だと思われるだろう。なんて勝手な事だと軽蔑されるだろう。
 それで構わない。

 あたしは元来勝手に生きて勝手に死んだ人間だ。
 今更竜になったとてそれが変わるわけも無かった。死んでも変わらないものは有った。

 愛すべき物をこの手で――きっとそれはシルヴィアの愛なのだろう。なのにこんなにも涙は止まらない。

「シィル!!」

 あたしは悩みに悩んで結論を出したのに、今更それは一緒にやってきてしまった。
 友人と一緒ならば寂しく無いだろうかとも思ったがアレはそんな弱い人間ではない。

 コウキは世界を変えてしまえる人間だ。

 それは単純に影響力の話だ。コウキと言う人間は純粋で強い。それにあたしよりも賢いしご飯が美味しい。友人を大事にするし此処にきたのも恐らくファーナの為だろう。
 まず敵意が無い。恐らく傷つけなければ彼はその馴れ馴れしい態度をやめる事は無いだろう。
 本人と直接会うのはもう何年ぶりなのか忘れてしまった。しかしそう思うシルヴィアが自分の中に居るのなら自分はシルヴィアなのだろう。

「俺はアキを連れて帰るよ」
「本当?」
「うん。まぁ俺が連れて来たんだ。
 連れて帰るまでは俺が責任もたないとな!」
「じゃあ、早く帰りなさい」

 その彼の言葉は無条件で信じてしまって、安堵のため息が出た。
 結局本意ではないのだ。 
 ここに来たのなら仕方ないと思ったのだけれど、戻るというのなら追う気は無い。
 しかしコウキはコウキである。
 常に先を見る彼がそこで行動をやめたりはしない。

「俺はこの先に用事がある」
「先って何処!?
 此処が何処だか分かってる!?
 アンタ正気じゃないわ!」

 一気にまくし立てても気にした様子も無い。喰ってしまえと脳裏に灼けた鉄が押し付けられるような痛みを伴って言葉が走る。
 自分と同じく信じたものを疑わない。見えている道を真っ直ぐ進んでいる。
 彼はそれが正常なのだ。
 あたしと違うのは愚かではない事。彼の後ろには彼の頼りになる友人がこのやり取りの行く末を見守っている。

「ここは竜世界だろ?
 精霊位世界に行きたいんだ」
「何をするの!」
「勿論」

 笑いかけてくる。いつもその笑みがある場所に人は集まる。

「此処に居る皆を助ける」

 彼は両手を広げていってみた。
 あたしが立っている場所から見れば全員が彼の両手の内側に居て、コレならば救えると言う彼の表現らしい。

「ば……! ばっかじゃないの!?」

 呆れて言葉が出ない。本気で言っているのがわかるからそれ以外はいえなかった。

「シィル、精霊位世界に行ける方法知らない?」
「知ってるわよ!」
「教えてください先生!」

 彼はおちゃらけているつもりなのだろうが、こっちにそんな気分になる要素は一切無かった。

「此処から、竜が一生全速力で飛び続けて、届くか届かないかわかんない竜の墓場の向こう側に“世界に挑む扉”がある!

 それがどうかしたの!!」

「そっか! ありがとう!」

 ありがとうじゃないのよバカ!
 説明しなかったのには理由がある。しても意味がないからだ。結果がかわらない。

「ドラゴンの寿命って知ってる!?
 万年とかそういう単位なの!

 だから! 無理! なのよ!」

 しかもこの道の途中には、竜が沢山居る。
 特に竜の墓場なんか絶対に越えられない。どうあがいても人間には無理なのだ。

 底に到達できない。
 何も足りていないのだ。

 足が速いだけでも駄目、光の速さで走ったとしても何年だろう。それは此処に居る全員の移動手段になりえない。

 壱神幸輝は不敵に笑った。

 え、できるの?
 そんな間の抜けた声が出そうになった。
 熱い頭が薄く湯気を出しているみたいだったのがふっと冷めたように思えた。
 言ってないのに、驚いたあたしにコウキは頷いて見せたのだ。

「だって、距離だけだろ?」

「は!?」

 屈託の無いその笑顔がどうしても憎らしい。
 頭が痛くなければこの手はあの頬っぺたを握って詰め寄っていただろう。

「シィル、俺はね!
 ちょっと遠いぐらいなら歩く!
 馬車だって色々費用がかかるだろ?
 俺は体力で補う奴だからさ、ちょっと頑張っていけそうなら自分で何とかするんだ。
 これは何とかできる範囲だよ」
「何言ってんのあんた!
 無理に決まって!」
「無理じゃない!」

 そう言葉を遮られて言葉の途中で息を吸った。
 何か変な気持ちが充満してくる。

「シィル! 今最高に気分が良いんだ、ちょっとそこ退けて!
 今なら真っ直ぐ切れる!」

 コウキは今、マナが切れているんじゃ――、ああそうか。彼は精霊位だから外側からも集められるんだった。無限のように思われていた彼の力の秘密は外側にあったのだ。特にこの竜世界ではあちらの世界とは密度が違う。彼が扱うには少し慣れが必要だったのだろう。
 裂空虎砲の威力は知っている。最強を謳うに相応しい“斬撃”だった。

 それをこの子は――!

「何する気よ!」
「斬って押し通る!!」
「そんなの!」

 だめだ。
 駄目に決まっている。
 壱神幸輝向かって、竜のあたしが牙を剥いた。

 人間大の壱神幸輝をどうも大きいと思えてしまう。それはあたしが人間大だからだ。竜に戻れば蟻に等しい――!

「お母さん!!」
「は、ぐっ!!」

 だけど。お母さんであるあたしがそれを止めさせる。
 あの時は殺せなかったが今ならこの竜を押さえ込める。
 感情の嵐があたしの中で暴れる。
 吐きそうだ。火とか、胃液とか、感情とか色んな物が混ざって最高に気持ち悪い。

「ふむ、気分が悪そうですね、仕方が無いので助けてあげましょうか?」

 涼しい声が嘲笑うように苦しむあたしにそう言った。
 この、クソ、エルフ! あたしはアンタに構ってる暇ないっての! 頭痛いの!

「……の、く、わ、ああああ、あああああああああああ!
 クソ、エルフぅぅぅ!」

 ビシビシと青筋が額に走る。この瞬間だけは最高にシルヴィアである。
 殴りかかるように飛ぶと、丁度その後ろを裂空虎砲の光が飛んで行った。

 パァっと清々しいほど真っ白に景色が染まって、人を認識するのは真っ黒な影だけの瞬間があった。竜の目には人の倍以上の色と認識感覚がある。色々と見える景色の中で、壱神幸輝はその先だけを見据えていた。
 その視線の先が気になって、飛び掛るのを止めてぐるりと方向を変えた。

 グルリと姿勢を反転して、光の先を見る。
 本当は大地に少し傷が残せる程度だろう。この世界をどれだけ切り裂いても無限を切っているようなものだ。

 しかしその光はある一定の位置でパッツリと切れている。
 まさか、と目を見張った。



「みんな飛び込めええええええええ!!」

 あたしの後ろから、全員があたしを追い越してその光の中へと駆け込んでいく。呆気に取られてその全員を見送った。
 どうして、誰もその光の先を疑わないのかと、ドラゴンのあたしは疑問に思う。
 しかしシルヴィアから見ればそれは明白である。一度コウキは此処にあの全員を呼び寄せて見せた。疑う要素は無い。
 背中が押されて、あたしも走り出す。

 ヴァンツェが、ファーネリア、コウキが前に出て、背を押しているのがアキだと分かる。
 何でこんな事に、と混乱する。命令系統がありすぎて何も考えたくない。だから押されるがままに走る。
 あたしが到達する事を諦めた場所へ。

 この竜世界の果てへ、足を踏み入れた。


*コウキ

 その世界の果てに来たのは初めてである。その先は未曾有にして深淵であるが、届く竜が居ない為管理されていない。
 深淵の向こうに手を出してはいけない。存在する事ができないからだ。ヴァンにそう言われて皆が神妙な顔で頷いた。
 しかしその真っ暗な闇の壁に一箇所だけ巨大な――それこそ、竜が入るような大きさの扉が静かに俺達を出迎えてくれた。試しにタケがおしていたがピクリともしない。それは俺達にとって大きな山だった。

「う、嘘……! 本当に、飛び越えたの!?」
 きょろきょろと辺りを確認していたシィルが興奮気味にそういった。
「我が道に障害無し! わはは!
 いやぁ、こうすると本当に覇道ってすげえよな」
「結局覇道って何ですか」
 キツキがヴァンに聞く。
「武力や権謀による政治ですね。
 グラネダはそれに近い形にあると思います」

 ヴァンがキツキに講釈している間に俺はみんなで押してみる動作を試したり、剣で固さを確認したりしていた。
 扉は鋼鉄っぽい音がするが宝石剣でも傷がつかない。
 俺達の様子を呆けたように見ていたシィルに話しかける。

「シィル、この扉がその精霊位に行く為の扉なんだな」
「……あんたホント変。竜が駄目って言ったのに」
「俺は駄目だと思って無いからそれは納得できないよ」
「竜はこの世界の法よ?」
「シィルはそのやり方好き?」
「ううん。大っ嫌いね。ただの押し付け合いよ」
 彼女は腕を組んでため息をついた。
「覇道は力!
 進むべき道にある全てを蹴散らす!
 裂空虎砲との相性は最高なんだ。これで俺は何処へでも行ける!」

 しかしなるべく温存はしておきたい所だ。裂空虎砲を本気で撃つとやっぱり体が急激に消耗する。今日既に二発、ついでに超竜虎火炎砲も撃ったのだ。貧乏性は発動してきてもおかしくは無いじゃないか。
 

「……あんたは、凄いんだね」
「そうかな? 俺自身は全然凄く無いよ。
 偶然と奇跡で飽和状態なんだ」
 それは本当の話で、今なら全ての条件が揃っている。
 魔女が俺の姉だったり、ラジュエラが俺の戦女神だったりしなければここにこれて居ないのである。
「それを凄いって言ってるの。何だか腹が立って来た」
「シィルも一緒に来てくれよ」
「は? アンタバカじゃないの? バカじゃないの!? 出来る訳ないじゃん!」
「なんで?」
「あたし、もうドラゴンよ!?」
「すげーじゃん」
「あぁあぁ!! もう! やだ!
 食べるわよアンタ!」
「俺結構筋張ってて美味しく無いよ。
 お腹がすいてるなら何か作ろうか?」
「違う! 全然違う! だから! あたしはアンタの知ってるシルヴィアじゃないの!」
「どう違うの? 仮神化が竜化になったぐらいじゃない? いや、竜の世界だから人化なのかな」
「そうやって話を逸らすな!」

 俺達の話を聞いてか、ヴァンが俺とシィルの間に手を差し込んだ。そしてシィルを見ると、彼女に諭すように喋りだした。

「貴女が竜かどうかは些細な問題です。
 貴女の意志があって、貴女の記憶があれば、それはシルヴィアではありませんか?
 プラスとしてドラゴンのプライド、でしょうかね。
 それは、ウィンドやアリーが王になったというのとどういう違いがあるのでしょうか?
 根本に居るのは貴女です。
 貴女は母である情を持っている。
 それはシルヴィアとして覚醒し始めているから、混乱しているのでしょう?
 竜である貴女のプライドが、それを許さない」
「止めろ……クソエルフ!」
「どっちつかずで中途半端じゃ、また・・何も守れませんよバカドラゴン?」

 今何か決定的な地雷を踏んだのが分かった。
 ヴァンは分かってやってる。だからそれがシィルのプライドを踏みにじったか、過去の傷を豪快に抉ったか、どちらにせよシィルの顔はすぐに真っ赤になって物凄い形相でヴァンを睨んだ。

「どっちが、中途半端だコラァーー!
 叩き潰すぞこの偽物ォーー!!」

 シィルはもうヴァンの事を知っているのか。
 物凄い剣幕で掴みかかると、後ろからアキに組み付かれるが真っ直ぐヴァンを睨んでいた。ヴァンも怯む様子は無く冷静に彼女を見返している。この構図は何時見ても変わらない。
「お母さん止めて!」
 アキがヴァンから引き離そうとするが、なんとびくともしない。
 体格的にはアキの方がいい。百七十センチ近い身長と鍛えられた体。ぐっと力を入れれば大抵は軽く力負けを起こす。両腕を脇の下から通しているのにも拘らずシィルは何も無いかのように動いてる。
 質量で負けてないって事だろうか。確かにあの大きさの竜をシィルに纏めれば必然的に物凄い質量になる。
 シィルが思い切り息を吸ったのを見て俺も慌てて止めに入った。
 俺は肩ではなく顎をそのまま掴んだ。アキは右手だけに集中してヴァンにそれを避けさせる。

「くわああああああああ!!!」

 ゴォ――!
 眩い光が高密度のエネルギーを発する。それは顎を下げきれず上向き気味で、更に腕を下げさせられた為ヴァンに当たる事は無かった。
 それは真っ直ぐ巨大な竜の為の門にぶつかって轟音を立てた。
 驚いたことに宝石剣で傷が付かなかったその扉をその攻撃が思い切り凹ませていた。最強の竜と言うのは強ち間違いじゃないのかもしれない。
 押さえ込みが効く様になったシィルをアキが捕まえてズルズルとヴァンから離す。
 ヴァンは何を気に留める様子も無く、服を整えていた。



*竜

 あたしの中にしか無い世界で、あたしと竜が意識を奪い合う。
 母親とシルヴィアは混ざった。元々同じ存在である。お母さんとなったあたしの器の広さに受け入れられないものはない。
 どうしても混ざりたがらないものは別だけれど。
 内面の戦いなんか皆は知り得ないだろう。外の世界に常にあたしは一人だ。

「シルヴィア。貴女もこの世界を生きるなら、自分ぐらい統一出来ないとかっこ悪いですよ」
「……そうやって! 分かった顔をするな……!」
「痛みをですか? 随分と女々しい事を言うようになりましたね」
「アンタ……! この……!」
「竜は貴女の中でしょう。貴方より小さいんですよ?
 本当の姿を決めるのは貴女です。貴女のその姿を竜だと言うなら……まぁ、小さくて可愛らしい竜ですね。
 どおりでキャンキャン煩い訳です」

 ピシッ!
 怒ったのはあたしでもあるし、竜でもある。
 何か凄いものに罅が入った。にび色に光る玉鋼のようなそれは竜のプライドと言うのかもしれない。
 そいつはそう言う事が出来る奴だ。
 意図的に、土足で大事な何かを踏み躙れる。
 竜はあたしの姿のまま、襲いかかる。リーチが足りない、素早さが足りない。力が足りない。
 本来なら一刻も早く竜になるべくもがくべきだ。
 しかしそんな事より、そいつを殺す事の方が先だ。
 力が身体の表面からにじみ出てくる。術式線が竜の力で書き変わっていく肉体が内側から強く再構成されて行く。
 竜の尾のように遠くまで届くのがあたしの剣。
「竜剣!!」
 身体がどんどんこの体で戦う為に最適化されて行く。竜が戦う為にアタシの我が侭を許容した。

「おおおおおおおおおらあああああああ」

 勿論。その激情の矛先はヴァンツェ・クライオンである。

「あっは!!」

 この感覚は知っている。前に一度この力を体験したことがある。
 たとえアレがアキの体だったとしても感覚が残っている事が一番大事だ。この力を扱う為の物差しになる。
 
 身体能力は全盛期のウィンドに匹敵する。
 動体視力はコウキ並み。

 竜としては物足りない。けれどこの場で最強である自信が生まれた。

 絶 対 ぶ っ 飛 ば す!!!

「止めろ二人とも……!!」 

 コウキの声が聞こえるが今何人たりとも自分を止める事は出来ない。
 腹の底から湧き出る言葉を大きく叫ぶ。

「あたしは犬じゃない!!

 シルヴィアだああああああああ!!」


*コウキ

 まさに鉄拳王の一撃である。
 隙の無い踏みこみと容赦なく襲いかかる拳。
 風を容赦なく押し切る音がして、ぶつかった瞬間は爆発したような音が響く。アレをまともに食らって死なない訳が無い。
 突然過ぎる出来事に皆唖然とシィルを視線で追いかけた。

 ガシャァァァ――!!
 聞いたことのあるガラスの砕け散る音だった。
 ヴァンが立っていた場所からは綺麗な破片が飛び散る光景だけがあって、彼の姿は何処にも無い。
 竜剣と呼んだ大剣を振りぬいた彼女は真剣な顔で剣の先を見ていた。やがて何処からともなく拍手が聞こえた。

「貴女の勝ちです」

 その声は俺の隣からしてびくっと身を引いた。ヴァンツェ・クライオンは健在である。
 何に対しての勝ちなのかは、語られなかった。二人は言葉ではなく目で交わしてから、やはりシィルが不満げに彼を指差した。

「そうやって! いつもいつもあたしばっかバカにしやがってクソエルフ! 腹立つぅぅ!!」
「もうやめにしませんかシルヴィア」
「あ゛ぁ!? アタシはまだ負けてない!!」
「勝敗の話ではありません。折角貴女に戻った事ですし。
 いい加減こんな所で停滞するのをやめましょう。
 貴女にきつく当たっているのは、良くも悪くも今貴女は昔と同じ状態にあったからです」
「同じ状態……!?」
「貴女は自由に慣れていないのです。考えているようで考えていない。強引に突破するだけが取り得です。
 だから今、竜に流される自分と私達に流されようとする自分でせめぎ合って、混乱している。
 いつも子供のように暴れるのは……貴女が選択の自由に未だに慣れないからでしょう。
 だから聞きます。

 貴女はどうしたいんですか、シルヴィア。考えてください」

「……」

 不思議な事にシィルはちゃんとヴァンの言う事を聞く。そして理解しようとする。
 ヴァンが言ってる事は結構難しかったりする。言い回しがくどかったり、頭を使わせるような言葉が多い。しかし答えをあやふやなままにしておく事は無い。そうするべきであるという意見は必ず持っている。
 その意見を押し付けたりはしないのがヴァンだが、シィルと旅をした時代は違ったという。

「……た、助けたいのよ!!
 決まってるじゃない!!

 あたしはアキを助けたいの!!」

 彼女の言葉は、ビリビリと皆に響いた。
 追い返そうとしたのはアキの為。せめて自分でと思ったのもアキの為。
 考えているのは彼女の事ばかりだ。竜になってもこれでは親馬鹿という言葉からは逃れられない。
 彼女の意志は竜の中から出てくるほどに強い物だった。
 それが分かったなら、俺は手を差し出すしかなかった。

「お腹がすいたらご飯!
 気に入らねえならぶっ飛ばす!

 ドラゴンでもなんでもシィルだろ!

 一緒に行こう!!」

 どこに話が転んだとしても結局俺はこう言ったと思う。
 まぁコウキだからとまた皆に言われるのだろう。
 けど、それが俺だ。仲間にした奴等は徹底的に巻き込まなくては。
 シィルの中の葛藤か、一瞬苦しそうな顔をした。しかしすぐに目を開いて俺を見ると何故かボロボロと泣き出して俺の手を取った。

「……う゛ん゛……!
 一緒に行く……!」

「お母さんっ! 良かった、一緒に行ってくれるんだね!」
「アキぃぃ……! ごめんね、ごめん……」

 想い合う親子二人が抱き合う図はとても美しいものだ、と思う。
 俺たちは気を利かせて一度二人から距離を取った。



「ファーナを助ける、俺を助ける、アキを助ける、シィル……っていう構図も面白いよな」
「コウキを助けるって段階で後ろにもっと一杯くっ付くだろ」
「確かに!」
「わたくしが何もしてないように聞こえるのがショックです……わたくしの前にメービィを入れてください」
「それメービィの所行くと同じ事言われるんだろ」

 下らない話をしていると程なくして二人が俺達に合流した。
 ちょっと泣き腫らして恥ずかしげなシィルと物凄いニコニコと笑うアキだ。二人ともすっかり打ち解けていて、姉妹のようだった。

「大丈夫? ご飯食べます?」
「食べるぅぅ!」
「アキがお母さん化していく! 親子の関係が逆転する!」
 それでいいのかシィル!? と突っ込んだらそっとファーナに止められる。
「いいのです。シルヴィアはシルヴィアで」
 ファーナはそういって笑う。まぁなんだか、俺の知ってるいつも通りに近づいてきた。アキだってシィルだって大事な仲間だった。



 深淵の領域に最も近い場所で俺たちは一時休憩の簡易キャンプを開く。
 こんな事をするのは竜にも居ないし、ましてや人でも初だろうとシィルは笑った。
 取り合えず座る場所をそれぞれ確保して作業用の石を集めてきた。石を熱してコレをコンロにする方が調理的にも作業量的にも楽だ。

「凄いねシィル、自我ってあるの? ドラゴンって」
「あたしはっ特別なのっ」
「仮神化って竜化とどう違うの?
 アキが長時間なってると竜世界くるじゃん」
「あれは結局神位が、えーと、3位と4位の間になるだけよ。3位に近くなってきたら竜にしないと都合が悪いの。だって竜にだけ許された位だかんね」
「シィルがものしりになってる……」
「あたしをバカだと思ってた? バカにしてる? ん? 竜世界に突っ込んでくる一番おバカの癖に〜!」

 指を差されるが皆その言葉に笑っていた。誰も否定してくれなくて寂しいぜ。

「ええと、シィルとはみんな会ってるよな。
 これが本当のシィルだよ。圧迫感が無い方のシィル」
「それあたしを遠まわしにバカにしてるよね」
「間接的にわたしを圧迫感がある方って言いましたね?」
「アンタは圧迫感あるわよ。もーむちむちになっちゃって」
「や、痩せたんですよ!? というか、お母さんのせいでもっとぷにぷにでやばかった時期があったんですからね!?」
「え〜? あれ元々よ。ぷにぷにだったわよ」
「ち、ちがいますもん〜!」

 シィルに言われてアキがムキになる。
 出会った頃のアキは結構痩せていたが、旅の間に食べるようになってちょっとぷにった事実を俺は知っている。

「大丈夫、アキは俺が責任を持ってもう一回ぷにぷににして見せるから!」
「やめてぇぇ!」
「料理上手の恐怖を今ここに垣間見たぜ」
 タケがごくりと息を飲む。
「でもファーナは全然太らないんだぜ」
「不公平だーっ」
 アキがファーナを糾弾するが、ファーナは困ったように笑って首を傾げるだけだった。
「でも理由は分かってるだろ?
 ファーナとアキの大盛りは違うんだ。
 でも俺とアキの大盛りは同じぐらい……身体の大きさもあるし、運動量もアキの方が多い。でも余る!」
「極めつけは食事当番制だと思うのです。
 コウキに張り合うあまり、残飯処理を受け持つ事が多くなったというか」
 ファーナが言うとアキが手を打った。食事当番は大体勿体無い精神から残せない余り物は自分で食べてしまう事が多い。料理の分量は何時だって完璧なわけではないし。
「残飯を美味しく食べる方法って結構あってね、アキには結構教え込んだけど」
 ちなみにカレーも教えているのでもうチョットすればアキオリジナルのカレーもお披露目されるんじゃないだろうか。それはそれで楽しみである。
 最後の発言のせいでとりあえずコウキのせいにしとけみたいな風潮が一気に広がった。くそう、腹いせに今度マヨ丼とかBBQソースとか教えてやろう。

 しばらく拗ねてご飯食べない宣言をしたアキに謝ってから、食事の支度を始めた。
 今回はお米もあるので完全にカレーにしようと思う。
 アキとファーナと手分けして切った野菜をドボドボと鍋に入れる。灰汁取りをしながら混ぜて先に焼いて熱を通した方がいいものをファーナに炒めて貰う。慣れない手つきでポロポロと零していたが、その辺はアキが揺すり過ぎないようにと教える。
 程なくして俺がカレー粉を使うとあたりに一気にカレーの匂いがし始める。健全なサッカー少年だった頃はこの匂いに目が無かったなぁ。
 痺れをきらしたシィルがこちらの作業台に寄って来て食材に顔を寄せる。

「つまみ食いは駄目だぜー。行儀が悪い。でもつまみ食いって美味いよな」
「作ってる途中だってお腹はすきますからねー」
「やっぱりベストは炒めたての肉料理の味見かな。つまみ食いじゃないぜ」

 シィルの目が内側に盛っておく用の野菜炒めを追いかける。これもまたいい匂いがするので、彼女は細かにお腹を鳴らしていた。
 なんだかかわいそうになってきたのでその最高の味見の役を彼女にしてもらう。
 パァッと笑うのが実にシィルらしく、差し出した一口にかぶりついてきた。

「美味しい! コウキのご飯は好きよ。それだけで竜世界を捨てる価値があるわ」
「え、今そんな偉大な所まで昇格してたの俺の料理」
 宇宙に羽ばたく料理になる日もそう遠く無いと言う事か。
「冗談。でも食事は楽しみなのよね。
 ドラゴンフルーツも飽きたわー」
「美味しいの?」
「固い。岩みたいな味するけど、何でか食べられるの」
「岩じゃね? それ……でもドラゴン的にはオッケーなんだ」
「そう。手羽先とか、ステーキがたべたーい」
「そんな贅沢な材料は無いよぅ。でも一日目だから肉のブロックがあるよ」
 大人数だったし結構いると思って沢山買ってある。
「テンション上がってきた!」
「早速たかってる……」
「燃費が悪いですね相変わらず。
 ちなみに彼女はアキの倍食べてますが、その量を食べながら一週間大して動かなくても体重は変わらなかったという逸話があります」
「逸話じゃないわよ。実話よ」
「どうしてその体質をわたしにくれなかったの!?」
「いやぁねぇ、太れるって良い事よ?
 どんだけ食べてもこんな風に育たないんだからあたし。
 相変わらずここの質量が凄いわね、このぅ」
「やめてっ! 今包丁持ってるんだからっ」

 胸をもまれたり頬っぺたをつままれたりいいようにされるアキを皆でニヤニヤと見守る。
 こういったスキンシップをするのか。
 料理は煮込み待ちなので正直手持ち無沙汰だ。皆思い思いに休んでいる。

「微笑ましいのう」
「鼻の下伸びまくってんぞタケ」
 バシっとそのだらしない顔に突っ込む。シェイルさんが無言で耳を強く抓んでいたが、それは効かないようだ。
「微笑ましいが故にだ」
「いやぁ、ここまでそっくりになると姉妹だよねぇ」
 俺とタケはじゃれあう二人に目をやる。だれが同見ても姉妹だ。
「この信じられない感じ。テレビで姉妹親子っていう特集やってたことあったな」
「懐かしい話だな。
 まぁ一件落着でいいのか」

 俺はそうだ、と頷いた。
 シィルは付いてきてくれる。それは心強い事だ。

「あの扉は誰が開けるんだ」
 キツキが扉を指差す。それは自分には案が無い事を意味している。
「タケ」
「取っ手すら掴めねぇだろうが」
「分厚そうだよな……」
「どれ飯前にもう一回ぐらいためしてみっか。
 ぬぐおおおお!!」
「シェイルさん」
「わかったよ。ほらタケヒト。がんばれ」
「ふおおおおおらあああああああああああああ!!!
 あれ!? オレ一人でやってねコレ!?」

「あーその扉重いでしょ。
 あたしが開けるからちょっと待ってね」
「はぁ、はぁ! 悔しい! オレだって開けられる…!」
 そう言って再び中心の隙間に手を突っ込んで唸り声を上げる。
「スライドドアじゃないんだから無理だろ」
 俺は小箱をスライド式にされてたことあるけどな。

「なんでドアなの?」
「そりゃ知らないわよ。
 でも竜は精霊位に挑んでも良いの。
 昔はそりゃあもう皆が競うようにこの扉から入って行ったって言ってたわ。
 今はここで落ち着いちゃって全然そんな事無いみたいだけど」
「戦女神が心待ちにしてそうだな確かに」
「ごはん食べちゃったらすぐ開けちゃうわよ」

 今はこっちでごはんを心待ちにしているドラゴンさんがいるのでそっちの満足に付き合う事にする。
 カレーは出来たかなと俺はファーナが番をする鍋の様子を覗きに歩いた。



 食事は大量に作ってみた。と言ってもカレーだ。余ってもまた美味しく食べられる。先に上がった野菜炒めは俺が目を離した隙に消えていたのであったのかどうか定かじゃない。アレは前菜にすらなったのだろうか。
 どうやらこの世界にカレーの技術を持って来たのは俺が初らしい。ゼロから作るカレーなんて誰もやらんぞとキツキに言われた。まぁそれもそうだ。俺だってあの店に勤めていなければ、カレー粉を作るなんて作業を知る事は無かった。でもカレー粉は万能調味料だ。知っておいて損は無いと思う。
 以前もカレー焼きソバとか色々やってたけど、意外と皆に評判が良く俺も調子に乗っていろいろと調味料の改良をした。あの時の俺と同じだと思ってもらっては困る。

「うぅ……」
「どうしたのシィル!? 嫌いなの入ってた?」

 辛すぎると言う事も無いはずだけど、と一応味見の記憶を思い返す。もしかしたらファーナ当たりが上品に辛いという主張をしてくれるかもしれないが、辛い熱いはむしろ好物のようで目はるんるんとしている。
 シィルには好き嫌いは無かったように思ってたけど違っただろうか。
 一口目を口に含んで震えだしたシィルに言ってみたが返って来た答えは全然見当違いだった。

「美味しい!
 おいしいの。
 こんな、当たり前の事が無くなってた……!
 やっぱコウキのご飯がおいしい!」
「あはははは! そっか、アキのは食べた事無いもんな」
「も!」
 一気にご飯と一緒にかきこんで頬っぺたを丸くした状態で頷く。
「うん、ご飯は逃げないからゆっくり食べなよ」
「タケと同じ盛り方で倍速で食ってる……」
「もふはひ!」
 すぐにおかわりの皿を差し出して来た。俺は笑いながらその皿を受け取る。
「はいはい。ゆっくり食べなって」
「流石にあの速度に張り合う気にはなれんな」
 タケも結構乗りよく張り合うが
「でもずっとここだったっていうなら、まともな食事って何年ぶり?」
「十五年ぶりではありませんか?」
「十五年ん!? そりゃコウキの飯もフルコース並みに美味いだろうよ」
「十五年はあの世界の時間です竜世界の時間ですから、もっとですよここでは十倍近く引き延ばされた時間が経過しています。
 コウキは竜世界に到着して三十秒程で剣を振ったと言いましたが、私達がここに到着したのは五分後だと言いました。
 私達は向こうの世界で三十秒後、すぐに現れた穴に入っています。
 十五年の十倍は何年でしょうかコウキ」
「百五十年……!」
 百五十年!?
 想像を絶する。俺は百年も生きられないからだ。この中でもその時間を生きられるのはヴァンや長寿種と言われる種族に生まれた人たちだけだ。
 俺が絶句しているとカランとスプーンが投げ出された。

「お腹膨れた……もう無理……でもまだ欲しい……」
「うん、もうおしまいなー」
 大量に作ったつもりのカレーは一杯ものこらなかった。これは旅が長期化しない事を祈ろう。
 でもシィルはかつてない程満足げにお腹を撫でている。
 皆に出したコーヒーや紅茶にも満足してもらえたようだ。
「うぅ、アキも、ファーナもありがと。おいしかった。ご馳走様っ」
 調理したのは俺だけじゃない。そういわれて二人は目を合わせて笑った。
「ふふ、気に入ってもらえたなら良かったですよ」
「アキはあたしよりお母さんの才能あるわー」

 ちょっとだけお腹ごなしに時間を空けてから、彼女は立ち上がるとグッと背を伸ばした。

「じゃあ、開けるわよ――“世界に挑む扉”を!」

 聳え立つ灰色の扉を背に、竜の化身である彼女が不敵に笑った。

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