閑話.『逆鱗』


 顔の似ていない兄が居た。腹違いではあるが一応それならば血縁的に兄妹である。
 と言っても十を超えてから本人ではなく別の人間から聞いて知った話で、聞いた後も兄妹がどうこうを気にした事は無かった。
 そいつとも戦いの前に作戦の確認をしたり指示を聞いたりする程度で日常で後はお互いに干渉した事は無い。どうやら同じ境遇の仲間のようだ、という認識以外に特に意見は無かった。その人を呼ぶときはゼットと呼んでいた。

 竜士団の戦闘要員教育が始まったのはトラヴクラハの先代の竜士団の時だ。幼い頃から対軍隊構想の犠牲になったのは当事2歳だった自分と腹違いの兄の二人。
 その訓練役だった父というものから教わったのは湖や山岳からの強襲や近接から遠距離まで全ての戦い方、一人で森や荒野で行き抜くサバイバルの方法だ。
 竜士として最も効率を重視した賢人と言われているが、親としてやった事は最低であった事に変わりは無い。自分の子を感情を消すように術を仕掛け、ひたすら戦争道具として育てた。その結果、竜士団は名実ともに最強を冠する一団となった。

 団員は団長のする事を黙って見ていた。戦果は多く出していた人だ。信用はあった。正しいと錯覚させられたのかもしれない。
 それはそれを許さないたった一人の人間が出てくるまで続いた。

 トラヴクラハ竜士団になって、あたし達の意志は自由になった。

 その人に憧れるのには大した時間は掛からなかった。
 自然と追いかけるようになった。沢山戦果もあげた。その度に複雑な顔で、良くやったと言ってくれた。それでも嬉しかったのだ。
 ゼットはトラ様の元で他の大事な事を学んで皆に信用される副団長となった。元団長の知識と冷徹すぎた元団長に欠けていたものを持っていたようだ。

 感情を取り戻して。
 あたしにはまだかけてるものがあったらしく、それを得る為にアリー達の所へ行く事になった。初めて出来た対等の友人達。想う事、想われる事。そしてその行動の意味と重さの理解――。

 あたしを受け入れてくれた親友達と一緒に成長して――やっとあたしは竜士団の本当の一員として戻ってこれた。仲間の為に戦えるようになったあたしは、命名を貰うほど活躍できるようになった。
 大好きな人に、好きだと言う事も出来た。あたしの世界は、その人が変えた。戦って勝つことは出来なかったけれど、想いは受け止めてもらえた。



 ――アキが生まれて、五年が経った。

「この子には、こういう生活はして欲しくないわ〜。こういう時は家があるほうが羨ましいわね」
「……そうだな」
「あ、別にあたしが嫌ってわけじゃないよ?」

 飲み水に困ったので、近くに川が無いかを探して、あたしとトラ様で水を汲みに来た。用途はキャンプの料理の為、と普通の飲み水。大人の方は適当に水分を得る手段があるので放っておいても構わないのだが、問題は子供のほうである。自分で行けと言うのもいいけれど大人同伴で行かせるべきだろう。

 こんなことばかり考えているから子煩悩すぎると言われるのだ。周りの人達は皆あたしに変わった、と一度は口にしたと思う。皆があまりにも口を揃えてそう言うので、自覚せざるを得ない。人間やはり子供が出来て落ち着くと丸くなるらしい。一番それを感じたのは、ヴァンツェに会って喧嘩をしなかった時だ。あいつも随分と変わっていて、まるで物腰穏かな執事のようだった。不良エルフがまさかの神官、そして奇跡の大抜擢……。そりゃあアタシだって丸くなるはずである。ウィンドやアリーも……変わってしまった。時間があたし達を変えていくんだなって思う。

「普通の女の子になって、普通に育って欲しいの」

 自分で言っていて不思議な気分だった。自分と同じ道を進んで欲しくは無いというのはこんなにも寂しい気持ちになるのか。
 でも、あたし自信自分の進んできた道が間違っているとは言わないまでも、明らかに普通なんて道ではない。
 隣の芝生は青いと言う。あたしから見た街娘達はとても穏かで華やかだ。彼女達はあたしの事を華やかな生活で羨ましいと言う。それはきっと英雄的な凱旋をする一面だけを見てそう言っている。血まみれのあたしたちを見て同じ事を言えないだろう。

「だから、この子が戦争に脅える世界に残して置けない。それに、此処に長く置いて置けない」
「そうだな」

「ホント……変な争いもモンスターも無くなればいいのに……」

 心の底からこれを願ったのはこの子が出来てからである。わが子を目に入れても痛くは無いという心情を親になって始めて理解した。

「それは、出来ないことなの?」
 あたしの問いに、トラ様は一度目を閉じた。
「……少なくとも。
 私達が居る間は無理だ」
 そして重い口を開いて、あたしにそう言った。
「それって、どういうことなの?
 あたし達は、戦争を止める為に、無くす為に戦ってるんじゃないの?
 ねぇ、トラ様」
「私もそうだと思っていた。
 それが竜士団の姿であると、疑った事はなかった……。
 戦争を止めているという事は、私達は永遠に戦争に生きなくてはいけない。
 私達は全ての戦いの正義の均衡を守るだけであって人の戦いを無くす為に尽くしているのではないのだ」

 夫はただ難しい顔をする。深い皺が刻まれた眉間がさらに険しさを増す。
 冷たい水を水筒にくみ上げて、あたし達はキャンプへ戻ることにした。早くあの子のところへ戻りたい。最近オセレッタというあたしの友人に世話を任せることが多いせいか、とても彼女に懐いている。悔しいし羨ましいのでやっぱりあたしがちゃんと世話をするようにしている。

 あたしの話を真剣に考えてくれているのか、トラ様はいつもより険しい表情のまま、森の中を歩く。
「あ。アキちゃんお父さんとお母さん帰ってきたよー?」
「あー! おとうさーん! おかあさーん!」
 キャンプ近くになると、あの子の声が聞こえた。薄暗い森なので、流石に連れて行くことが出来ずオセレッタに預かって貰っていた。あの子があたし達を呼んで走ってきてくれるのはとても嬉しいことである。
 笑いながら此方に寄って来るアキに難しい顔をしていたトラ様の顔も思わず綻ぶ。優しい顔をする事が多くなった。
 アキを抱き上げてただいまと言い、少しだけ強く抱く。アキもあたしにきゅうと抱きついたあと「パパもー!」とトラ様のほうにも行きたがったので後ろに回りこんでぶら下がらせた。トラ様の両手は片方が桶と片方が水筒で埋まっていたからだ。それでもアキは楽しそうに笑いながらぶら下がってずるずると腕力が持たなくなって落ちていく。
「お帰り団長、シルヴィア。思ったより早かったわね」
「あぁ、いつもすまないなオセレッタ」
「あらいいのよ。私もアキちゃん好きだし。ねー?」
「ねー!」
 アキがきゃぁきゃぁ喜びながらオセレッタに抱きつく。正直今の時点で嫉妬心マックス状態である。
「ね、ね、アキ、お母さんは?」
「すきー」
「ああ、もうアキが世界一可愛い!」
「見事な親馬鹿状態ね」
「何と言われてもアキは可愛い!」
「はいはい……悪魔の姫様も母親になったのねぇ」
 戦舞姫とか言われているけど、戦女神から見て綺麗だという誰かの血で塗れた私の姿は普通の人から見れば鬼が如く映る。実際にわたしを戦場で見たら殆どの場合は生き残らない。だから悪魔と呼ぶのは偶々生き残った誰かで、戦果だけみただれかが姫と呼ぶ。
 そしてあたしの帰る場所である竜士団の人もまた自分を知る者なのである。この一団の中ではそんな姿当たり前なので一々怖がったりはしないが。

「……見てらんねーな」
 急に声がしてみなでそちらを振り返る。
 竜士団には団長が一人、副団長が二人居る。一人があたし。もう一人がこのゼットという男だ。
 あたしと同じ竜士団で生まれて育った生粋の竜人である。
「ゼット」
「あのなァ、お前らがそんなだと団が腑抜けんだよ。
 こっちみんな。食うぞ!」
 がおおおーと狼の真似か何かをしている。今それをやっている自分が一番間抜けだと大人に気付かせないのが子供のいいところだ。
「きゃあああ! あははは!!」
「ちょっと! うちの子に乱暴しないでよ」
 無意味に過保護にアキを守ってみる。抱き寄せたがしきりにあたしを壁にしてチラチラとゼットを見ている。またやって欲しいようだ。
「してないだろ。どんな言いがかりだ。なぁ?」
「もっかい! もういっかい!」
 うちの子には好かれている。というか、言葉遣いが悪いだけで悪い奴って訳でもない。
「アキが可愛い! 仕方ないわ。アキに免じて許してあげる」
「全く……大概にしろよ? つか、お前もう前線に来るなよ」
 ビッとあたしを指差して言う。その正論には割りと賛同者も多く、今も何人か笑いながらそうだそうだと囃し立てた。
「やーよー。まだあたしの方が強いもん。ねーアキちゃん?」
「ねー!」
 子供を巻き込んで笑う。此処はいい。皆でアキの面倒を見てくれる。あたしやゼットの時みたいに、あの歳から刃物を握らせるような事も無い。
 ふと思った。あたし達は戦争に備えて、と鍛錬を積んだ。ただただ、殺せる道具として強くなった。それが一番効率がいいとされていたから。
「アホ面め」
「なによあんたこそ、人の子にでれでれして無いで子供作んなさいよ! もう三十近いんだから!」
「ぐなっ!? まだ三十路じゃねぇ! ほら俺って戦場を駆ける竜士団の若き右腕だし? イケメン過ぎて超モテるし困るぐらいだし?」
「ふーん、じゃあよりどりみどりねー。あ、アキは見ちゃ駄目よ。あんな風になったら終わりだから」
 アキの目を両手で覆うときゃぁと高い声を上げてそれを取り払おうと動く。
 その間にあたしはゼットを限りなく汚いものを見る目で睨んでおいた。
「汚物を見る目!? じょ、冗談だっつに。竜士たるもの見送る女と共には生きらねぇ。共に歩むが竜の道よ! なぁ妹よ!」
「うっさいなぁ……。説得力皆無よねぇオセレッタ」
「そうねぇ」
 はふーと息を吐きながら二人冷めた目でソイツを見る。不詳兄の風を吹かしたがるこいつに負ける要素は余り無い。戦場じゃあたしとドッコイだし。……それも数年前の話か。
「うぉい! クラハ、お前の嫁が俺に冷たいっ」
「自業自得だ。そろそろ落ち着いて子供の一人でも作ってみたらどうだ」
「だから竜士団がどんどん締まらなくなるだろーが」
「その要因の一人になっておいて何を今更」
「子供に罪は無い」
 キッと顔を無駄に引き締める。アホなんだが良い奴ではある。
「ああ、うちの子は可愛い」
「……所詮、親馬鹿は皆の通り道か……まぁその方が平和ではあるがな」
 あたしやゼットがそう言うと決まって回りが黙ってしまう。仕方ないのでゼットと目を合わせて肩を竦めるとアキを両手で抱き上げてゼットの前に突き出す。
「……ふっ」
 間髪居れずにゼットが脇腹をガッツリ掴んでこちょこちょと擽り始める。
「きゃはははははは!! ははははは!! にゃああ!! あはははは!!」
 アキが笑えば皆笑う。あたし等の手から逃れてトラ様のところへ駆け寄るアキを見て想う。
 微笑ましい光景として皆に受け入られている――ウチの子は、天使のように可愛いのだ。
 どうにかこうにか空気が読める程度に成長した戦争兵器の成れの果てにしては面白い形になったものだ。今はそう客観的に思える。
「何ニヤニヤしてんだよ」
「あら別に? アンタも子煩悩になりそうね」
「ならねぇよ。なったとしてもここまで酷くない」
「あら、そうかしらねぇ」
「そうだよ」
「じゃあ……なってみる?」
「は?」
 オセレッタはニヤニヤしながらそこで会話を止めた。
 悪くないわねぇ、という言葉だけが気になったがそのまま彼女に釣られて皆で無邪気に笑うアキに視線をやる。

「あーこの子が大きくなるまでに戦争ってなくなるかしら」
「……難しいな。俺たちがガキの頃から頑張ってて、なって無いんだ。
 どこぞの団長が子供にうつつ抜かしてなきゃ今頃はなってたかもな?」
「本当にそう思うか?」
「……はぁ、悪かったよ。思って無い無い」
「ふむ……。ゼット、話がある」
 そう言ってトラ様は再び水を汲む為の容器をゼットに投げた。
「おう」
 それを受け取ってまた二人は水汲みへ向かうようだ。
 大事な話はそうやってテキトウな用事をついでに遠くへ行く。次の戦争の話ならあたしも混ぜてくれてもいいのにもう仲間はずれなのかと思ってハイハイっと手を挙げる。
「あたしは?」
 その質問にトラ様は一瞬考えてニッと笑った。
「料理でもしててくれ。肉はふんだんに使ってくれ、ついでに何か狩ってくる」
「えー!」
 あたしの返事には二人で笑って森の中へと姿を消した。ぶぅっと頬っぺたを膨らますと、アキにプスっと萎まされる。
「アキちゃんは可愛いな〜!」
「さて、シルヴィアちゃんは料理しましょうね」
「ごめん無理」
「諦め早っ! シィル、戦闘以外にもやる気見せないとダメよ」
 オセレッタはピッと指を立ててあたしに言う。
 そこまで言うなら、とグッと拳を握って――叫んだ。

「ご は ん た べ るーーーー!!」

 心の奥底から響けあたしのやる気元気! 青春の汗みたいな物を散らしながら叫べればもっとあたしの誠意は伝わったはずだ。
 何事だと皆の視線が一気に集まる中、ペチッとオセレッタにチョップを食らう。
「そういうのじゃないから!
 消費しかできてないから! 作んなさい!」

「たべるぅぅー!!」
「アキちゃん真似しちゃだめっ。
 あんな風になっちゃ駄目よ?」
「えー」
 オセレッタのチョップは意外と痛い。だから蹲って打ち震えていたのだけれど、アキの可愛い顔見たさに顔を上げるとオセレッタに取られていた。悔しい。
 いつもならここでごねて作らないのもいいのだが、あまりアキの前でそういう事をやるのも大人気ない。
「わかったわよぅ。ちゃんと作るし」
 だからこれからはちゃんとしようと思って口にした言葉に驚いたのはあたしを嗾けたオセレッタだった。
「えっ!?」
 そして次々に仲間達に飛び火していく。
「お、オイ、シルヴィアが料理をするらしいぞ!」
「えっ嘘、シィル料理するの?」
「おい無理すんなって」
「天変地異が起きるぞォォォ!」

 ざわざわと広がる話にイラッと来たのでダンッと地面を踏んで仁王立ちする。

「あんたらそこに直んなさい。キツイ灸を添えてあげるわ」

 今ならウィンドといい勝負できるパンチができると思う。届けこの理不尽。
 若い奴を数人捕まえてボコボコにしてすっきりした後、アキをもしゃもしゃと撫で回して癒されながら言う。
「ったくもー。作ったげるからぐちぐち言わないの」
『へーい』
「材料は何があるの? ねーオセレッタ手伝ってよ。あたし作れるようにはなったけど下手だもん」
「うん。それでも十分よ」
 オセレッタは優しく笑ってアキのお世話をほかの人にお願いすると材料を取りに馬車に向かう。あたしもそれに習って彼女の手伝いをすることにした。




「怖気づいたかトラヴクラハ!!」
 なみなみと水が汲まれたバケツの水が揺れた。月面を映し出し黄色く光を反射するそれに影が揺らぐ。
「違う……我々が戦に身を投じる事で、世界が変わるのならとっくにそうなっていると言ってる。
 だから私は――それが正しいと判断した」
 トラブクラハに影が落ちる。
 その姿にギリッと歯を晴らしてブンッとゼットが手を振り上げた。
「ハ! ガキが出来て牙を失くしたな!!
 戦に身を投じてこそ竜士団!! 公平に裁き、公平に世界を統べる!!
 我ら流れ者の身なれど、最も高潔な王であるというのに!!」
「それは違う……我々は王などではない……!」
 ゼットを真っ直ぐ睨んで言い放ったがゼットは首を振った。
「ハッハッハ……まぁ、いい。クラハ。

 竜士団を去れ。

 戦わぬ戦王など、要らぬだろう。
 どこぞの国に抱え込んでもらうなり、どこぞの辺境で幸せに暮らすなり、好きにすると良い。

 竜士団は、俺が引き受けよう!」

 元よりそのつもりで今呼んだのだ。そういってくれるのはありがたいとも言える。
 シルヴィアには組織的なリーダーの才能は無い。故に次に任せるのであればゼットが適任となる。
 実際の能力としては申し分ないだろう。竜士団を十分に引っ張れる力があり、シルヴィアよりもずっと思慮のできる人間だ。

「今更怖気づいた戦王に誰が付き従うと言うのか!!
 俺達は竜士団だ!! 心身強き者が頂点に立ち、世界の覇者となる!!

 トラヴクラハ竜士団は、今終わった!!」

 ただ一つの欠点は竜士団のあり方を竜士団本位に考えてしまっているということ。
 ここに居るのは竜士だ。戦う為に居る。誰かの平和をもぎ取る為に居る。

「それ自体はそうでいい。
 だがゼット。勘違いするな、ここに居るのは開拓民ではない」
「わかってるさ。
 クラハ譲るならとっとと譲ってくれ。
 んで出てけ。
 このままじゃガキに腑抜けちまう。
 牙を研ぐのが馬鹿らしくなっちまう。
 分かってんだろ――そうなるとよ。俺らの人生全部死ぬんだわ――」
 無感動に言われたその言葉には行く年の月日の思いがあったのだろうか。
「……解った」

 ゼットとシルヴィアは竜士団でも特別だ。屈指のエリートと言える。育て方は暗殺者のそれで、ただひたすら身体を鍛えられ殺すことに特化した戦い方を叩き込まれた。それでも何とかできないなら自力で、力で捻り殺せと叩き込まれて来た。
 それを二人が語る事は無い。ゼットはずっとそれを耐え、虎視眈々と団長になってこの団を変える事を望んでいた。
 それが叶うから少し舞い上がっていると言うところもあるのかもしれない。
 ここで腑抜けて全員でやめようなんて言うと。
 人生の半分以上を戦争の為に費やしてきた彼らの身の全てを否定する事になる。

 自分も含めて、捨てるものは大きい。
 もしかしたら命名すら無くなるかもしれないが――それでも――。

 未来が見えないのではなく、これ以上はいくらやっても無駄である事が分かった。竜士団の人数も一定を保つが、国の大きさは昨今は大きくなるばかりだ。
 アルクセイド大隊と真正面でぶつかれば竜士団とて負けるかもしれない。逸材は軍隊にも存在する。それに兵の質も上がってきた。数の暴力の脅威はもうすぐそこにまで迫ってきていた。竜士団が負けるのは、時間の問題である。
 それでは意味が無い。
 故に今。この有り方を棄てる。



 てんやわんやの騒ぎで食事の準備が行われていた。
 あまり細かな料理を作るわけでもなく、ただの野菜のスープを作っているだけで皆が大騒ぎだ。オセレッタはずっと面白そうにニヤニヤと笑いながらトントン野菜を切っていた。まだあたしにはそれができない。リズム良く野菜が切れれば料理凄いできそうにみえるのであれをやりたいのだけれど、どうにも不器用さはそれを邪魔してくる。
「はぁ……もうじろじろ見ないでよ。つかトラ様まだ帰ってこないの?」
「ついでの狩りがエスカレートしてるんじゃない?」
「やっぱりあたしもそっちが良かった」
「もー、折角女の子らしく、ポニテして、エプロンして! 調理してるのに!」
「なぁにが女の子らしくよ。オセレッタがやりたいだけでしょ。
 あたしこれでも一児の母なんですけど」
「じゃあちょっとぐらい母親らしくしなさいよ」
「十分母親らしいでしょ?」
「えっ何その冗談面白ーい」
「殴るわよ」

 談笑を交わしながら、コトコトと煮えるスープをかき混ぜる。
 オセレッタは切った野菜を持ってきてどばどばっと入れると、あたしに崩さないようにかき混ぜてねと釘をさして手を洗いに行った。
 丁度そこに水汲みから帰ってきたトラ様とゼットが来て、手を洗う水が確保できた。言った通り何か狩りの成果の麻袋を持っていて、それを食料庫管理の人に渡していた。
 ゼットは此方を見るなり面白いものを見たかのように飄々とやってきて指を差して言う。

「おいおい、マジでお前が料理かよ!」
「うっさいわねー。アンタも具にするわよ」
「おっかねぇな。まぁ混ぜてるだけだろ?」
「違うわよ。味付けあたしやってるし」
「マジか」
 恐れ慄くゼット。失礼きわまりない。
「シルヴィアがメシ当番ってなぁ」
「変なもん入れてないだろうな」
 さっきから見てるくせにゼットが来た途端話がもう一巡し始めた。
 仲間内では良くある事だ。聞いていない奴の為に暇な奴が話していく。
「入れてやろうかこの野郎」
「つか、何作ってんだ?」
「んー。具の多いスープ」
「ポトフか?」
「なんでそんなの知ってるんだ。お前コーンスープのレシピすら知らんと言い切ったろ」
「もぅ、覚えたの!
 いいじゃんあたしだってやりゃできるの!」
「ははは、ホント変わったなぁお前」
「うっさい! あんた少なめに盛ってやる」
 ゼットの後ろで囃し立てる仲間にお玉を翳して言う。
「勘弁してくれぇひもじくて死んじまう」
 情けない声で言うそいつに皆から笑いが漏れる。
「ははは、ほら言った通りだろう」
「何よぅ。トラ様も馬鹿にするの?」
「いいや私は嬉しいよ」
「いや……そうじゃねぇ。
 随分とらしくなったじゃねぇか。これが美味かったら俺の秘蔵の酒樽持って来てやるよ」
「ふーん、いいのそんな事言って。
 はい。味見してよ」

 自信があるから差し出したのかと言われればノーである。
 かの友人達が作っていたようにそれぞれの個性が出るのが料理である。例えばウィンドが作ればさっぱり豪快な感じの味がする。それでも素直に美味しいと言える物を作る辺りがとても憎いがあたしは好きだ。性格が出ると思わせる料理を作る第一人者だ。逆にクソエルフは物凄く詰まらない料理を作る。レシピ通りとしか言えない完璧に普通な味と普通な物しか作らない。アイツの料理は嫌いだ。普通に食べれるけど。アリーの料理はとても繊細で良い香りがする。初めの頃は酷いものだったが、日に日に良くなる味と工夫されていく味には驚かされた。才色兼備とはこの事だとあたしは思う。
 思い切り脱線したが自分の事である。料理はアリーと同時に始めた。アリーが天才的過ぎて自分が嫌になった日もあったが、そんな彼女も一緒にあたしにエールを送ってくれたので仕方なく頑張った。目標は主に男性勢に美味いといわせることである。
 例によってクソエルフだけが延々と薀蓄を垂れ流しながら不味いと言い続けるので、数え切れないほど食事中の喧嘩が発生した。
 それからウィンドの協力を得て味見をするようになったり、紆余曲折を経た末に、ようやく食べれる物が完成して皆に美味しいって言ってもらった時に、初めて嬉しくて泣いた。ついでに馬鹿にしてきたクソエルフと喧嘩した。料理にはそんな思い出がある。結局あたしのはウィンドに似た拙い味のものである。それでも簡単に作れて美味しいものは沢山あるというのと、その簡単の繰り返しで難しい物を作ればいいと言う結論達する事が出来たのが一番の収穫だ。
 まぁ思い出を語ったところで今作っている料理が劇的に美味しくなるかは別の話だ。竜士団の舌は無駄に肥えている。というのもやたらと世界中から集まるこの一団に料理スキルの高い人間が居ないわけが無く、よく調理当番を肩代わりしては仲間内の借りを作っている。当然それは自分の得意な事で返すわけだが、あたしもそちら側の人間だ。狩りや料理の手伝い自体は結構やるのだ。
 伊達男の自称グルメ品評会が始まって辺りがやたらと静かになる。

「ふーん。匂いは良いな」
「早く食べなさいよ。冷めると美味しくないわよ」
 自信たっぷりだな、とニヤニヤと笑われる。熱いうちのほうが美味しいのは煮込み料理の鉄則。あとは無駄に引き伸ばされると某クソエルフを思い出してイライラする。そんな事は良いからさっさと味を見なさいよ、と言うとそう急かすなよ、と無駄に余裕の笑みを見せた。
「味は――、泥臭くねぇ……甘いな。ロクな調味料がねぇ分、野菜で出すしかねぇ甘さで良く出せたな。……美味いぞこれ」
 ふふん、と胸を張ったがゼットはそれを笑う。
「はは、まぁ言っても殆どオセレッタの指示で作ったんだろ?」
 ああ、そう思われていたのか。確かに横にずっと居たけど。あたしに言われるままに良い感じに野菜を切ってくれてた。
 あたしが見ると、手を洗って戻ってきてたオセレッタが笑って
「――あら、私は全然よ。野菜切ってただけだもの。指示されてたのは私よ」
 ニヤニヤとしながらブイサインを向けて、ガリガリと頭を掻くゼットを見る。
「嘘、だろ……」
 まだ疑うゼットにもう一度味見用についで差し出す。
 それを無言で口に運んで同じ味がした事に負けを認めたのか、ガクリと頭を落とした。

「お・さ・け! お・さ・け!」
『お・さ・け! お・さ・け!』
 あたしのコールに便乗してキャンプが盛り上がる。ブルプルとこめかみを押して味見ように渡した皿をテーブルの上に置いて皆を振り返った。
「わーったよ! 俺も男だ。約束は守る! 手伝え!
 お前等飲むぞ!!」
『うおおおおおおおおおおおお!!』

 異様な熱気に包まれるキャンプ。妙に気分が良くなってあたしも威勢よくピースを差し出して宣言した。
「今日の料理で後二回あんた等はびびるわ」
「今日だけはマジで否定できねぇな。楽しみにしてるぞシルヴィア!」
 数人の男を引き連れて自分の酒を置いている馬車へとゼットは向かった。あたしを覗き込んでオセレッタが訝しげな顔をする。
「何その自信……怖い」
「んっふっふ! あたしにはアリーとウィンドに教わった必殺技があるからね!」
 調子に乗っている。あたしはお調子者だ。褒められたら褒められた分余計な事をするのが性である。それは断じて善意である事だけは誓ってもいい。
「アンタホントあの子ら好きねぇ。カッコよかったなぁ」
「ハァ? クソエルフは別よ別」
「そこは変わんないわけね」
「アイツは最低よサイテー」
 そこでアキがくいくいとあたしの服の裾を引っ張る。
「ん? アキ? 何?」
「おかーさんおなかすいたぁ」
「そっか。お母さんもおなかすいた!
 ほらスープ入れたげる。みんなも適当に器持ってきなさい」
『うーい』
「まさかシィルの号令を聞くことになろうとは……長生きしてみるものね」
 すでに置いてあったアキのものとオセレッタのものに注いで行く。肉は大目に入っているのでふんだんに入れても構わないだろう。
「エルフに言わせてるんだからあたしも大したもんよね」
「ホントよ。私野菜多目がいいなー」
「はいはい。この大根は自信あるわ」

 一通り盛り終わってお変わりは自由にと言ったあと、少しアキの頬っぺたの周りを拭いてから次の準備の為に水を取る。
 皆が焚き火を中心に盛り上がりを見せている中、裏方で働くなんて中々やろうとは思えないが今は絶賛調子に乗っている最中である。

「お水もうちょっと使うわよ」
「あら、まだ何か作ってくれるの?」
「お酒があるんだからサービスするわ。ウィンド直伝のエダマメをお見舞いしてあげる」
「豆?」
「ええ。最強のおつまみよ」


 食事当番は神と崇めよ、と酔っ払った誰かが言っていたのだけれどこれはいいものかもしれない。
 時折あるこういった大騒ぎ。秘蔵の酒はゼットのビールで、酒好きのアイツは必ず樽ごと買い付ける。
 料理を食べた皆は美味いと口をそろえて言った。あえて料理を吟味した感想を言ったのはゼットだけだが評論家の居ないこの軍団では最も評価を貰ったほうだと思う。だから気分が良いのも手伝ってパパッと酒を飲む段階の用意が出来た。
「まさか豆を塩茹でするだけでこんな美味いとはなぁ。酒が進む!」
「もう無いのー?」
「あっちにさっき置いたわ。アレが最後」
「あーずるいよ寄越せっ」
「うはは、こっち来い!」

「評判上々ねー」
 ああ楽しい。こんなの料理じゃないって初めは馬鹿にしたけど。ウィンドは美味いものは簡単にだって作れるんだぞって教えてくれた。
 ちゃんとした料理としてもアリーが簡単なものを教えてくれてる。実はもうさほど料理当番を断る理由は無かった。ちょっと、こんな風になる自信がなくて黙ってた。
 食べ終わったアキのごちそうさまを聞いて、口周りを拭いた。枝豆に関しては本当に老若男女に受けが良くて、アキもぽろぽろ零しながら沢山食べていた。丁度豆を買っておいているのは知っていたので咄嗟に思いついてやってよかった。
 ニヤニヤと皆の反応を楽しむあたしを見て、ゼットのお酌からふらふらと戻ってきたオセレッタがふっと笑って言う。
「あんたお母さんの才能有るわ」
「えっそうかな」
「ええ、気が利くもの」
 お母さんの才能ってなんだろうと思わなくも無いが母性的なものとは無縁な生活をしていてよくここまでできたということだろうか。それ自体はあたしもそう思う。
 あたしの顔が可笑しかったのか小さく笑って言う。
「えへへー」
「……へらへらしちゃって。ホント、変わったわ。あんた」
「でもただオバちゃんになってるだけじゃないよ! ちゃんと強いし!」
 いやでも最近めっきり戦わなくなってちょっとお腹に肉が付いた気がする。胸にもきてるので喜んでおくべきなのかと思っていたがやっぱりこう腹筋割れてないと駄目だよね。アキを上げ下げする運動でもしようかな。
「そうねぇ。弱くなっちゃえる世界だったらよかったのにね」
 弱くなるのは簡単だ。ようは何もしなければいい。
 あたし達が強いのは当たり前だ。だってこの世界で生き抜くために戦っているのだから。
「ああ、そろそろ私等は引き上げましょう。アキちゃん風邪ひいちゃうわ」
「うん。オセレッタもあるよ」
「ん?」
「お母さんの才能」
「……ありがと」
 彼女が大人しく肯いたことは少し意外だった。
 でもそこで何を言うわけでもなくあたしはアキを抱えてテントへ向かう。



 竜士団の中で一番変わったのはあたしだ。
 誰があたしが子供を産むなんて想像できただろうか。
 殺伐とした空気を生んでいたあたしが、料理をして、笑い話をして。人は変わっていくものだなって皆に言われた。それは決してあたしを貶している訳ではなくて、とても温かみのある言葉だった。

 次の日の朝一番に召集が掛かった。
 大きな戦争も近くに無いようなら次の町で依頼を受けなければいけない。本来なら移動の話をこうやって朝にする。しかし今日は違う。夜にテントに戻ってきたトラ様からは今日する特別な話を聞いたときは耳を疑った。

「皆、聞いてくれ。

 トラヴクラハ竜士団は今解散とする」

 驚きで言葉も出ないとはこの事だ。
 皆が一気に眠気を覚まして、真剣な目に変わった。
 ――だって。
 あたし達の居場所が無くなる。

「突然驚かせて済まないな。
 私は戦いに身を投じる事に疑問を覚えた。私の求めた平和のいくつかは、このままでは達成できないと解った」

 竜士団の団長は真っ直ぐに皆を見る。
 達成できないのは戦争を消すと言うこと。しかしそれは大きくは国、小さくは個が関係する。意見の違う他人と言う存在を消しながら生きなくてはいけないのだ。

「私が成せたのは小さなことばかりだ。
 戦いに勝った先に私達は立っているが、この先とて待っている戦いの先には“竜士団”が在ると不都合である場合の方が多く写るように見える。
 延々と、それをやり続ける事は本当に竜士団として正しいか。私には正しいと思えない」

 始まった戦争を終結させた。それは戦王トラヴクラハの残した大きな功績だ。しかしこれから起こる事は防ぎきれない。
 竜士団がある不都合とは、それに頼る戦争があると言うことだ。
 戦争を始めるとき自分達をありきで戦争を始めた国があった。いろんな事象を相手からしかけさせた。自分達が正義だと泣いて訴えてあたし達を嗾けたのだ。
 裏で手を引いた人間を探すのは骨だ。事がややこしくなるほど、あたし達がその場に居た人間ではない事がネックになる。
 だからあたし達が去った後に嘲笑う人間が居る。
 そしてヴァンツェのように――。
 そんな繰り返しをしてはいけない。

「だから私はこのまま戦うという道を止めようと思う。
 竜士団と言うあり方を引き継ぎはしない。各々自由にすると良いと思う。
 だがこの竜士団を引き継ぎたいと言うものの為にその意志のあるゼットに竜士団の名は託す。

 最後に、ゼット。お前の考えを聞きたい」

 竜士団に居る、という人は必ず居る。
 あたしはトラ様についていけばなんとかなる。でも此処が拠り所の人も多いのだ。
 副団長が団長に上がるのはセオリー通りだ。

「あぁ。
 ――俺は前々からお前は甘っちょろいと思っていた。いずれこうなる事も、俺には解っていた。
 俺たちには確実で戦争で勝てる実力がある!
 こんな小せぇ暮らしはとっととおさらばだ!
 やり方次第じゃ、俺達は“神”にだってなれる!!
 俺達こそが、この世界の王であるべきだろう!!
 最もシンプルに俺たちの平和を力で築いちまえば良い!!
 それが平和ってやつだろう! なァ、トラヴクラハ様よ!!」
「竜士団は、テロリストではない。それは掟に反する」
「そんなもの、今無くなっただろう!」
「……竜士団を名乗るのならば、救う者であることを辞めるな。
 確かにこのままでは私達は報われ無さ過ぎる。
 だがそれを望んだ時点で、今までの竜士団は終わる。
 正義の無いテロリスト集団など、たちまち世界に殺される。
 聖人であれなどと言わない。我々は傭兵だ。手を血に染めて何を成すははっきりさせておかなくてはいけない。
 名実なら各々あるだろう。わざわざ戦わずとも、どの国にでも抱えてもらえよう。
 ゼット、私が聞いているのはお前が竜士団を率いて何を成すか、ただそれだけだ」

「なんだ逃げる奴が偉そうに。
 お前にはもう語る権利は無い」

 別にトラ様は何も言わなかったけれど、あたしは少しカチンと来た。
 何か言ってやろうかと思ったが、すぐにゼットの方が笑い出した。

「はははははは!

 冗談だクラハ!
 新しいやり方としての道を探し、苦悩したのはお前だ。
 これでも感謝してるんだ。
 とっとと隠居してくれ。俺たちゃアンタ等の幸せを願ってる」

 ワァっと声が上がる。
 ゼットがこっちを見て笑ったけどべぇっと舌を出して返した。別に気にする風も無くそのまま皆へと向き直る。

 あたしとゼットは従兄弟に当たる。兄弟みたいにそだってはいないけれど、ゼットはたまにあたしを妹みたいなものだと言う。
 あたしは未だにそう思えた事が無い。全然似ていないし。

「そう、これまでのやり方じゃあ無理だ。
 そんなのお前が悩んでる時点でみんな分かってた。

 俺のやり方だ。聞いてくれ。
 俺達は生き方を変えないならでかい軍隊にならなきゃいけねぇ。
 より強くなるために必要なのは数だ。
 もっと名を上げて、竜人以外の仲間も集める。
 ギルドが町になるなんてざらな話だ。

 俺達ゃ国になるんだよ。
 小国になるまではあっという間だ。

 しかしこれで俺達は報われる!!
 王として崇められ、敬われ!

 もう、ただ死ぬ仲間を見届けるような事はしなくて済む……!」

 仲間が一人いなくなる度に、なんでこんな事になったんだろうって考える事は多かった。でも竜士団っていう傭兵は、結局のところ勝利を掴む為の駒でしかない。あたし達が強いのは間違いないけれど、他人を弱いと思って居てはいけない。
 竜士団は竜士が正義と決めたものを一身に守り抜く少数精鋭。
 その存在が――今揺らいでいた。

「俺に続け竜士団!
 俺たちはこの世を統べる王になろう!!」

『おおおおおおおおおおお!!』

 ――そいつの理想は、あたし達が目指してきたものに近いんだろうか。
 目を閉じてその光景の脇役に徹するトラ様を見る。あの人が見た未来にはこんな風な光景が映ったのだろうか。ゼットを中心に声を上げるのは過半数。新しい竜士団になる時の決まりは、去るものを追わない事だ。トラ様が選ばれた時も半分ぐらいになったものだ。

 それからトラ様の活躍によって集まってきた仲間達。それは前の倍ぐらいまで竜士団を大きくした。そして一気に世界に認められていった。初めから竜士団を歓迎してくれる町の方が多くなった。加担する正義を決めるのはトラ様で、その選択は間違っていなかったと言うことだろう。
 今訣別を決めたトラ様には何の落ち度も無い。そうあたしは思っている。あたしがついていくべきはもう彼しかいない。この子と一緒に生きるから――平和に暮らすなんて、そんな言葉もいいんじゃないかなって思ったのだ。

「おかーさん」
「ん〜? なぁに?」
「だっこ」
「アキは可愛いなぁ〜。
 怖いおじちゃんばっかりで難しい話してておっかないよね〜」

 抱き寄せてよしよしと頭を撫でる。
 この子は絶対に美人で良い子になる。絶対にだ。あたしがそういう呪いを今かけた。
 そんな事を思ってるあたしを見てアホズラねぇ、とオセレッタが笑いながら近づいてきた。それにムッとした顔をすると笑ってごめんと言う。もうこのやり取りは恒例みたいなものだ。

「あんたはどうするの?」
「わたし? ん〜どうしよっかなぁ。
 どっかに……そうねぇ、トラ様級の良い人いないかしら。そしたらそこで暮すのに」
 丁度いい切り株の上で座って両膝を抱えて笑うオセレッタ。ちょっと意外だった。何となく残るって言いそうだったから。
「トラ様はダメ!」
「わかってるわよぅ。
 ねぇチャックー。クロスセラスに行かない?」
「ん……。ああ。そうだな」
「あたしもー」

 チャックとシンシアがそれに同意する。チャックは投げ物の達人、そしてシンシアはなんか動物と仲良くできる人だ。職として特殊に訓練させた動物を飼っていて、鳥を周囲の警戒に飛ばせたり犬に臭いで気付かせたりと中々役に立つ。犬も野良犬みたいに噛んだりもしないし、よくアキの遊び相手になってくれてた。
 あたし達は竜士団で会って仲良くなった。これで竜士団の女性はいなくなってしまった。

「トラ様、あたし達はどうする?」
「そうだな……」
「無いなら、マグナスに行こうよ。
 あ、今グラネダだ。グラネダっ!」
「ははは、ああ、そうするつもりだった」
 邪険にされる事は無いと思う。今発展してる途中の国だが、あんなに活気付いている国はなかなか無い。旧友、と言うほど会っていないわけでも無いが一年もすれば恋しい感じはする。
「前、凱旋してもらった所?」
 オセレッタが何かを思い出すような仕草をしながら聞いてくる。
「そうそう!」
「あそこもいいわねぇ。落ち着くようなら遊びに行こうかな」
「こっちには来ないんだ」
「私にも、落ち着くならここって決めた場所があるのよ」
「じゃあ、仕方ない。遊びにきてね?」
「そっちもね」
「うん」
 その約束だけをして準備を始める。


 出発はその日のうちだ。特に引き継ぐものは団長の印をゼットに渡した程度のようだ。
 ゼット竜士団になった、というのはなかなか寂しい事実で、軽い見送りにあたし達は手を振った。基本的にあの人たちは、見送るのは好きじゃない。
 そして、アキがとても寂しがった。特にオセレッタに冗談でバイバイって言われた時に泣き出したのは焦った。冗談ついでに一旦引き渡すと結構遠くまで連れて行かれたが、それでもすぐに泣き出して戻ってきた。実はオセレッタは少し道中一緒なのだが、結局はこうなることになる。だから泣きながらでもお別れしてもらう。
 トラ様は皆に声をかけて立ち去る準備をした。あたしは簡単に手を振るだけ。そんなものでいいと思った。何人かあたしより古い時代から居た竜士が済まなかったと謝ってきたが、それは終わった事だと笑った。

 最後にゼットにぐらい声をかけて行こうかと思ったがどこに行ったのか会う事はできなかった。
 早速副団長を決める為の話し合いかどつきあいをしに行ったのだろうか。忙しない交代だしそれは仕方無い事かな、とあたしは思った。
 何か嫌な予感があったような気がしたけれど――気のせいだと割り切って、途中の道が一緒のオセレッタ達とキャンプを発った。



 しかし、歩き出して一時間程度したところで、自分達が来た方向の山の上で一筋の光が上がって地響きが鳴り響いた。
 まったく、としか言葉は出なかった。
 嫌な予感しかない。
 あたしはその光をみて、一目散にその場所へと駆け出した。皆で全力でキャンプへ駆け戻って、あたし達は皆が居ないことを確認して、ただ事じゃないとその場所へと走る。トラ様とオセレッタの制止の声もあったが嫌な予感から一目散に山へ向かった。
 ――竜が現れると天空に高く長い光の柱が立つ。それは竜の色と同じで色とりどりだ。何色であろうとも良くない前触れだ。

 到着した時にはもうそれは始まっていた。
 キャンプから山側へ上り、絶壁になっている所を垂直に駆け上がる。他の団員も異常を感じて全員そこへ集まっているはずだ。

 そいつの橙色はいつもあたしの正反対の色をしていると言われていた。仮神化するとマナ影響を受けやすい部分が変色する。良く反転と呼ばれるがそれに近しい色にしかならない。むしろ色が減っているというのが正しい解釈だとヴァンツェが言っていたが自分にはあいつの話は理解しづらい部分が多いので、テキトウな返事をしながら聞き流した気がする。それはさて置き。
 仮神化したゼットが自分の剣を構えて肩で息をしていた。

「何してんのアンタ――!!」

 頂上についた時には、その山の地面の半分と――仲間の半分、そしてそいつの片腕が削り取られていた。

「……ハク付けるにゃ、竜を押しのけなきゃな?」
 どこにそんな余裕があるのだ、と起こりたくなる真っ青な顔のまま笑ってみせた。
「戻ってくるんじゃねぇよ。とっとと逃げろ馬鹿。お前らもだ」
 団員を指して彼は全員をその場から退かせる。何か言いたそうだけれど――皆は黙ってそれに従った。
「馬鹿はお前だ! 軽々しく竜を語るな!!」
「うるせぇ!! 俺は竜士団を継ぐんだそれが出来なくて何が団長だ!!」
「その力の証明だけが証じゃない!!」
「それも含めてだろう!?

 俺は!! トラヴクラハを超える!!!」

 頑固者だ。
 どうしても譲れないものを前にして譲らない。例えそれが無理でも。あたし達はそういう風に育てられた。
「もう勝手に……!」
「あぁ、そうするさ」

 ゼットはあたしとの会話を終えて竜の前に立つ。
 その目は前しか見ていない。

 これじゃあ……あの時のあたしと同じ。
 自分の力の過信からの慢心。
 英雄欲から来る無謀。

 最初に会った時にやった誘拐事件。
 あの事件はあの三人だけでよかった。あたしは無茶して邪魔して。
 頑なに真っ直ぐ進むだけ。
 それしか知らないから。
 仲間なんか、ホントは見えてない。

 ああ、アイツはずっと独りなんだ。

「……馬鹿」
 あたしが、置いていった。
「……馬鹿!」
 これじゃああいつの言ってる通りじゃないか。
「あたしの馬鹿!!」

 自分の映らなくなったアイツがどんな馬鹿をするかなんてあたしが一番良くわかっていたのに。
 過去の自分から目を背けて、成長した自分に浮かれて。

 手を差し伸べられなければ、あたしはあの時のあたしとなんら変わらない大馬鹿だ!

 もうあいつにバカドラゴンなんて言わせない。
 もうあたしだって――誰かを救える。


「……あっれぇ、おかしいわね、ドラゴンってこんなにちっちゃかったかしら。
 あたしが見た偽者の黒い奴の方が倍は大きかったわ」

 レプリカのドラゴンとなんて比べ物にならないけれど。

「弱そうねぇ、色も薄いし、なんか可愛いぐらいだわ」

 そんなもの、冗談で言うのもとんでも無い事だ。

「意志があるんでしょー?
 なんとか言ったら?
 竜の言葉はわかんないわ? ほらあたし馬鹿だから」

 最高の侮蔑を言うには、ゆっくりとねちねちと馬鹿にしろ。それをあたしに教えたクソエルフに感謝はしないが、今だけ褒めてやっても良いと思う。

「ちょっとこっち向いて、吠えてよ。
 ほら――、

 わん!!!」


 ブワアアアア!!

 突如あたしを吹き飛ばさんばかりに暴風が巻き起こり、身の毛がよだつほどの距離に真っ白な術陣が出現した。
 笑いが出る。神様も煽り文句に顔真っ赤らしい。
 後は術式を吐く為に口内集束を始めたら口の中に最速でプチブレスと十字架剣をぶち込む。
 失敗したらこの山一体が吹き飛ぶか。ゼットも馬鹿か、と叫んでいるが今は遠くに聞こえる。
 最高に集中出来ている。
 今あたしを止められるものは何も――。


「おかあさん……!」

 その声に振り返ってしまったあたしは、笑顔が引き攣った酷く歪な顔をしていただろう。
 今一瞬たりとも目を離してはいけなかったのに。

「あきぃ……!」

 声が裏返った。
 なんで来ちゃったの……!

 最前線は危ないのに。

 自分の立っている場所が酷く足場が悪い斜めな場所に感じた。
 神経についてこない脚がもつれて、こけかける。

 背中でパァッと光が灯った。
 その中でアキだけを抱えて――ただ目を閉じた。


 ボッ!!

 直線に飛ぶ黄金槍が風を斬る。一切無駄の無い一直線を駆け抜け、竜の頭蓋を粉砕する。
 かの人の戦王たる所以。
 一切の隙を見逃さず、一切の手加減をせず、戦に於いての全ての勝ち取る。
 その武は見るもの全てを慄かせる。迸る覇気に身を震わせる。
 武神の具現を思わせる出で立ち。
 金の武装に銀にも見える淡い光を帯びた真っ白な髪。その淡い光は地面に降りても光り続けている。
 神々しくもある仮神化した姿には見惚れる者も少なくは無い。
 一瞬だ。本当に一瞬の事。あたしが振り返っている時にはあきを挟んで反対側であの人はもう槍を構えていた。

「大丈夫かシルヴィア」

 その声は穏かで、泣きたくなる。安堵する自分はきっと弱くなったんだと思う。

「うん……っ」
「アキと一緒に下がって居てくれ」
 その言葉を吐いて、キッと視線をあいつに向ける。
「ゼット!」
「オルセッタ! なんでつれてきたの!?」
「ごめんなさい、私はゼットに用があるの。早くアキちゃん連れて逃げなさい」
 そういうと彼女はゼットへと駆け寄る。
 トラ様もゼットに歩いて寄った。

「ゼットよ、何故こんな事をした」
 傷口の処置を始めるオセレッタ。トラ様は青ざめていく彼に問う。だれがどう見たって間に合わないのだけれど――その目は真剣だった。
「……必要な事だからだ」
「竜と戦って無駄な犠牲を生む事がか」
「クラハにあった強さだろ。
 ……俺が手にしなくてどうする!」
「要らないだろう……!
 そんなものなど無くても、お前は竜士団の団長だ」

「違う、俺が追いつかなければいけない。
 いや、俺がクラハを超えなくてはいけないんだ!」

「そんなもの、積み重ねて超えてしまえばいい!
 竜を倒したがなんだというのだ! 半信半疑で面白がるばかりの話だろう!
 成果を重ねろ! お前の掲げた目標は消して間違いではない!
 一団を率いて己を竜としろ!」

 トラ様は自分に天意裁判をかけてきた竜を今のように一度殺した。
 その地上に居る事に対する意志の強さを認められ、見逃された――そう、竜は殺せない。
「力が必要なんだ。強くなれば意味が無い」

 だからあたしはこいつを馬鹿だと言った。
 猪のように目に見える方へ真っ直ぐ進んでいってしまう。

「竜士団に必要だと思った。
 俺にこれを背負う事が無理ならよ。

 竜士団はここで終わりなんだ」

 ぐいっとソイツは手当てをしてくれていたオセレッタのベルトを掴むとトラ様に向かって投げつけた。
 唐突な事に驚いて流石にトラ様もそれを後ろへ飛び下がりながら受け止めた。

「悔しいな」


 フッとゼットが影に覆われた。雲が太陽を遮ったかのように落ちた影に顔を上げる。
 捕らえられたのは大きな影の元だけ。それが落ちてくるまで何か理解する事は出来なかった。 

 あまりの大きさにそれが落ちてきた瞬間に地面が大きく揺らいだ。砂埃と衝撃に襲われ、突風からアキを守るように抱きかかえる。
 巨大な赤竜がゼットの居た場所を丸ごと飲みこんだ。

 あまりにも一瞬の出来事で全員で唖然とその光景を見送ってしまった。
 最後のアイツは――情けなく笑っていたような顔をしていた。

 あいつは、あたしよりも容量の良い奴で、感情が解放されてからすぐに皆と仲良くなれていたしその分信頼も厚かった。
 あたしと同じ境遇の癖に恵まれた奴だなんて思っていたが――ああ、どうしてこんなにこの終わりが気に食わないのだろうか。動でもいい奴の最後が竜に食われて終わったと聞いて、ふぅんと言えるのが他人だ。あたしはそっち側だと思っていた。
 オセレッタは放心したように膝を折って、座り込んだ。ああいう反応の方がずっと身内らしい。彼女が言いに戻ってきた言葉が何か知らないけれど、彼女のその姿もアタシの頭を沸騰させる。

「絶対に、ここから動かないで」
「おかあさ――」
「アキ、いい子だから!」
「――あ……!」

 怖がらせてしまったか。
 でも今はとても、気分が悪い。

 最悪だ。
 十字架剣を持つ両手に妙に力が入る。
 イライラする。

「やめろシルヴィア!!」

 ごめんなさい、トラ様。
 今どうしてもこれを止める事は出来なさそう。

 なんて名前を付ければいいのかわからない激情だけが吐気みたいにこみ上げてきて、少し涙が出そうになって――。

 ああ、もういいやあいつぶっとばす。

 それだけ考えるようにして地面を蹴り飛ばした。



「クワアアアアアアアアアアアア!!!!」

 小竜砲の最大火力は術陣が二枚出現する。自分の弱い術式ではその程度だ。
 拳を翳して思い切り十字架剣の柄を殴った。ジャラジャラと激しい音を立てて一直線に竜へと飛んでいく。
 鱗の硬さに勝てなくてその衝撃に跳ね返る。
「いっったぁ……!」
 軋むような腕の痛みに声がでる。あたしは驚くほど――

 弱くなった……!

 この事実だけがあたしに降りかかってくる。
 アキを産んでから少しは安静にしてろと言われ、そのあとは少し自分を師匠と言ってくれる子達と遊んだり、簡単な防衛を手伝ったり。
 死線を越えるような戦いは全くやらなくなった。全盛期なら落ちるまでに十発は入ったのに。身体が重いだなんて思ったのは始めてである。
 それが堪らなく悔しい。情けない。

 でもそれを認めるだなんて、あたしらしくも無い。

 生憎、この世界で竜人をやっていると色々と解る事がある。
 少し無理をすればたとえ体内のマナが無かろうと、大気からマナを吸い取る事が出来ることがわかる。
 ヴァンツェのような術士ならもう少し良い相性をしているのだろうけれど、あたしと術式って相性は最悪なのだ。
 この術式ラインを焼きながら吸収して、それを技の為のエネルギーに変える。

「降り注ぐ流星の如く<スティ・ラグマ・テンスター>ァァ!!」

 ギシッと明らかに異様な音が肩からした。
 そして術式ラインに沿って血管が浮き上がるかのように真っ赤な血が吹き出る。

「うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 ズドドドドドドドドドド!!!!

 十字架剣を全力で利用した、戦舞姫と名を貰ってから初の無茶である。
 それをからだが動かなくなるまで全力で繰り返して――。最後の一撃を投げた勢いで本気で上下が分からなくなって頭から落下していく。

 ソイツとは繋がりは薄かったのかもしれない。
 ただちょっと時間をかけて、一緒に笑う練習とかもした。
 自由になると意外と離れてる時間の方が長くなった。
 しかし気心知れた、唯一の人間だった。

 幸せで線引きすれば、他人事だったのかもしれない。

 それでも。それでも―――!
 手を差し伸べるべきだったのは、あたしだった!!!

 あたしの人生の中で、出会ってきた人間を鱗とするとその中で数少ない深い絆の人間を逆鱗と呼んでもいい。
 最も古くて最も根深い、背中合わせのそいつは色あせていても根深いままで引っこ抜けば激痛が走る。

 あたしは痛いよ。

 喉元に直撃した赤竜は少し呻いた程度で殆ど動じる事は無かった。そしてそのまま―――ぐんっと頭を振りかぶった。
 そして頭を鞭のようにアタシに叩き付けた。
「シルヴィア!!」
 それがぶつかる寸前にトラ様に庇われて、自分の目の前に金色の鎧が目に入った。しかし諸共強い力に押し付けられるように地面へと叩きつけられる。
 ドラゴンに力の差は殆ど無いと言われている。まぁ、ドラゴンの力を量れるような人間なんて居ないわけなのだが。
 ただ無慈悲に振るわれるその力で地面へと押し付けられた。

「ガハッ!!」
 ドゴンッと地面に叩きつけられて血反吐を吐く。
 たった一撃で瀕死に陥ったのは初めてだ。仮神化していなければ即死だっただろう。
 竜からすればあたしは蚊のようなものである。赤竜は何を気にするでもなく、竜は飛び上がって竜世界へと消えた。

 そして――最悪のタイミングで、銀竜の再生が終わりむくりと起き上がった。忌々しい物を見下す視線があたしへと飛んできた。当の自分はなんとか起き上がれはするものの――、既に瀕死。非常に不味い状態になった。
 サイズで言えば赤の方が大きいが銀だって十分に大きさを持っている。そいつはあたしを一瞥するとちらりと視線を遠くに向けて術陣を出した。口を開かなくてもブレスと同等の事は出来るやりやすさと最大の火力で言えば口を開いた方がいい。
 そしてその竜が術陣を向けた方角には、たった一人の愛娘が泣きながら座り込んでいる。

「アキを助けて!!!」

 あたしは叫んだ。
 全身が痛い――自業自得だ。全く足に力が入らない。

 天意裁判に、竜が二匹出た。
 迎えに来られたのは二人。

 竜に食われればそのまま竜となる。
 竜を退け、竜を超える存在になれば神になる。

 大きく開いた竜の口が頭上に迫る。
 兄妹揃って、同じ結末なんて笑える。
 もしかしたらこれが家族の愛なのかもしれないし、仲間への情なのかもしれない。戦場でゼットは――常にあたしの背中に居た存在だ。お互い見えるはずも無い。あいつは居て当然だったんだ。そうか、だから一人になった途端あたしはあんなに弱かった。
 兄や妹という自覚はお互い余り無かった。しかし他人でもなかった。
 一緒に戦場を駆け抜けてきた分の信頼と絆はあったんだ。

 それがきっと――今の激情の正体。そいつはあたしの背中にある逆鱗だった。

 血の騒ぐ通りに走って、それ自体に後悔は無い。
 同じ竜になるのなら――そうだ、竜になって赤竜をぶん殴りにいくのも良いだろう。ついでにゼットだった物も殴っておければ尚いい。

 トラ様は一目散にアキへ向かっている。こちらを気にしている余裕は無い。でもそれでいい、足を止めてしまうと二人とも助からないから――。

 大きく目を見開いたアキに、最後に残せるのはなんだろうか。考えるまでも無い。言うべきを言うだけ。

「ごめんね」

 自分の無鉄砲さでも怨んでれば良かったのだろうが、どうやら愛娘を見ているとどうもそうはできない。
 せめて。笑顔で記憶に残れたら。
 手を振ったあたしは、上手く笑えていただろうか――。

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