26.歌声


 考えていた。
 ―――京のこと。
 ミヤコは、何で今まで、誰からの告白も受けなかったのか。
 俺を好きだった―――?
 それならもっと早く言えたはず。
 なんで今―――?
 理由が分からない。
 暗くなった自分の部屋の天井を見上げて、グルグルとそんなことを考えていた。

 不意に、ドアがノックされた。
「涼二? メシだぞ」
 父さんだった。
 ドアから顔を出して、俺にそう言う。
「ん―――わかった」
 それに答えて俺は立ち上がって、開けられたドアに近づく。
 父さんはドアの前で立ち尽くしていた。
「どしたの?」
 俺は俺よりももう少しだけ背の高い父さんを見上げる。

「―――優一に、似てるな」


 父は、あの日以来殆どウチに帰らなくなった。
 時折こんな風に思い出したように帰ってご飯を食べたら次の日の朝早くに居なくなる。
 あの時に比べれば格段に父は喋るようになった。
 母も元の暖かい人柄を取り戻したように思う。

 ただ、今も思う。
 この家族は嘘っぽい。

 母が父が帰ってきたら必ず俺を呼ぶのはまた戻ってしまうのが怖いからだろうか。
 無言になってしまうとあの人は泣いてしまう。
 二人だけだと特に、あの人が泣かなくていい理由はなくなってしまう。
 俺は多分優一の代わりとしてやっぱりそこに居るんだと思う。

「俺は涼二だよ、父さん」

 俺は存在する事をやめない。そういう選択をした。
 優一になり変わろうなんて無理だった。親友達がそれを許してくれない。

「――優一のようになれそうか?
 ああ、成績の事は聞いた。そのまま頑張れ。
 お前にだってああなれる。

 いや、なるんだ」

 ―――途端、酷くココロが冷えた気がした。

 父さんは乾いた笑顔で俺を見る。
 俺を見ていない、過去を見続ける目。
 酷く、光の無い、疲れた目。
 そんな目で俺を見る親父
「父さん、誰見てるの」
 だから俺は聞いた。
「いや、ただもっと優一に似て―――」

 優一、優一、ゆういち―――!!

 結局この人は、俺なんかこれっぽちも見ちゃいない。
 フラッシュバックする―――記憶。
 俺が優一になるんだ。
 そんな誓いを……!! なんでまた……!!

「俺は涼二だ!!!」

 俺は思わず叫んでいた。
 そう、俺は涼二であって優一じゃない。
 俺は息を荒くして親父を睨む。
「っすまない……」
 親父は俯いて俺に謝った。
 ―――ムカついた。
 なんでだろう。
 背中から熱いものが一気にこみ上げてくる。
 久しぶりに会った親父。
 あの日から変わってしまった親父。
 元々仕事熱心だった父が更に仕事に打ち込むようになった。
 家に帰らない日が増えた。
 目が曇っているようで見るのも辛かった。
 涼二を―――優一と重ねてしまう親父。
 涙を流し、拳を握る姿。
 それより以前から俺は同じ感情を持っていた。

「親父が!! あの日から一度でも俺と兄貴を重ねずに見たことあんのかよ!!!」

 あの時の兄貴と俺を比べていた親父はまだ良い。
 でも、今の親父だけは許せなかった。
 思わず詰め寄って問い詰める。
 ―――何も言わない親父。
 言えない。
 あの日から、俺をずっと優一としか見てなかったんだから。


 ―――……兄貴は、親父の自慢だった。
 サッカーボールを与えてくれたのは親父。
 遊んでくれたのは……数回ほど。
 殆どは京のおばさんか、おじさんに教えてもらっていた。
 でもデビューの試合には駆けつけてくれたし、ボールを追いかける俺達を楽しそうに見てた。
 ―――尊敬していた。
 京のおじさんが父は凄い人なんだって教えてくれた。
 実際、一回だけ京のおじさんと対決してたのを見たが親父は勝った。
 お互い衰えた、と二人で爆笑していたのがとても子供のようだった。
 ―――仕事から家に帰ってきて、話を色々聞く。
 勉強だってスポーツだって何だって聞けば答えが帰って来る。
 その時間はとても好きだった。

 あの日を境に、それは無くなった。

 父親は喋らなくなった。
 変わりに、母さんが頑張って料理を振る舞って喋って隙間を埋める。
 俺の前だと元気な母さんも、部屋に戻ると泣いていたのを知ってる。
 親父はただ無言で、何もしなかった。

 壊れた時間だけが、進む。

 ―――海岸に向かって走る。
 夕陽が沈みかけた海岸に向かって叫ぶ。
 声が枯れる。
 泣く事しか、出来ない。
 ……いや……僕が直さなきゃ。
 原因は自分だ。
 兄貴が死んでしまったのは自分のせい。
 父さんがあんな風になってしまったのは自分のせい。
 母さんがあんな風になってしまったのは自分のせい。
 こんな冷たい家になってしまったのは自分のせい。
 取り戻すには……兄貴が必要だ。
 父さんの自慢だった兄貴。
 父さんが笑えば、母さんだって笑う。
 ああ、そうだ。
 兄貴がいればいい。
 僕は、要らない。
 あははは。簡単。

 僕が優一になればいいんだ。



「涼ちゃんっやめて!」
 母さんが俺と親父の間に割ってはいる。
「お願い……お父さんを責めないで……ごめんねっゴメンね涼ちゃんっ」
 母さんは言って、泣き出してしまった。

 傷口が抉られるように、痛かった。
 泣き出す母さん、沈黙する父さん。
 あの時と同じ。

 嫌だった。

 俺は、
 また―――…

 俺はその二人から数歩後ろへと下がった。
 誰か
  助けて
 俺も泣きそうだった。
 その光景を見たくなくて、後ろを振り返った。
 ―――窓の向こうに見えたのは、京。
 丁度、俺に気づいたみたいだ。
 俺は呆然と口だけ「たすけて」と動かして、その場に、跪いた。
 ガラスに映った自分に目が合って、ソイツは泣きそうな顔で言った。
『死にたくない』

 迷う。それは、誰の、叫びだったのか。




 ―――兄貴だ。
 病院で、手術室に入る前に俺が手を繋いで医者と一緒に走っている。
「兄ちゃん! もうすぐ、助かるから……!」
「涼二……っ」
 救急車のときより、ずっと俺の手を握る力は弱くなっていた。
 だから俺が強く手を繋いで、励ましていた。
「俺は……!」
 何処を見ているのかは分からなかった。
 ただ、虚ろな目で虚空を見上げていた。
「死にたく、無い……!」
 涙が零れていた。
 そして、力が抜けて、手が離れた。
 ―――兄貴は手術室に消えた。
 俺は置いていかれて、ただその前に立っていた。
 出てくる人に何度か尋ねたけど、忙しいからって応えてくれなかった。
 泣きそうだった。でも堪えて待った。
 兄ちゃんに謝りたかった。
 すぐに母さんが来た。
 大丈夫なのかと必死な母さんの質問に俺は答えることは出来なかった。

「なんで、こうなったの?」
 母さんの言ったこの質問がとても怖かったのを覚えている。
 自分のせいだ。
 嘘を吐いて逃げたかった。
 でも、母さんの真剣な瞳に嘘はつけなかった。
「僕が飛び出したのを庇ったんだ」
「何やってるのよ!!」
 その言葉を聞いて初めて、母さんが怒った。
 だから泣いて謝った。
 ごめんなさいを何度も言った。
 怖かった。
 母さんは看護婦さんを捕まえて様態を聞き出すと絶望する。
 数分後に、中に入ってもいいと言われることになった。
 母さんは、涙する。

 僕のせいだった。


 あとは、ずっと怯えていた。
 貴方は、要らないのに。
 そう言われるのが怖くて。

 ……いつか……それを真実だと思って飲み込む事にした。


 父と母を部屋から追い出して、扉を閉めて蹲っていた。
 悲しいと言うよりは痛いという感情に苛まれていた。
 ズキズキと疼くのは俺の痛さではないような気がした。俺の中に住んでいる、他人。
「涼二!!」
 それからすぐに、聞きなれた声が、響いた。
「みや、こ―――?」
 何かに飲まれそうになりながら声を振り返る。
「ど、どううしたの、涼二……!」
「俺は―――…誰になればいい……」
 俺は要らない。
「―――っだめだよっ涼二は涼二なんだから!」
「俺―――?」
 俺はいらない。
 ダメだ―――頭が、全く、動かない。
 不意に体が勝手に立ち上がる。
「涼二―――?」
 不安そうな目で俺を見る京。

 結局、俺は要らないんだ。
 涼二で居る俺は、あの人と比べると、成績は劣るし、運動も出来ない。
 有体に良い子と言う言葉を並べてあの人を表現したら、自分は悪い子でしかない。
 なら、俺は要らないと、言われたんだ。
 お前は優一になればいいと。
 涼二なんかは居ない。死んだ。交通事故で――亡くなった出来損ない。

 京の横を素通りして、俺はフラフラ歩き出す。
「っ何処に行くの?」
「俺の―――…居場所?」
 良く分からない。
 俺は要らない。
 今、ココロが壊れてる。
 俺は要らない。
 思考に統一性が無くてグルグルと同じことばかり考えている。
 俺は要らない。
 俺は、無意識に、靴を履いて、夜の道を歩き出した。



*Miyako...

 涼二はフラフラとした足取りで、家から出て行った。
 追わなきゃいけない。
 でも、私にはやらなきゃいけないことがある。
「おじさん! おばさん! 立って下さい! 涼二を追います!!」
 居間で泣いている小母さんと黙っている小父さん。
 こんな人たちじゃなかった。小母さんはお喋りで明るかったし、小父さんは口数は少なかったけれど暖かく見守るような顔をする人だった。
 おかしくなったのはやっぱり優一さんが亡くなってから。
 このまま、こんな状態のまま放っては置けない。
 この状態を悲しいと思ってるのは涼二だけじゃない。
 二人だってそう思っているはずだ。
 だからこそ、涼二と話をさせないといけない。

 じゃないと、涼二はもう―――!

「お願いです! 涼二はっあなた達の為に今まで優一を演じてきただけなんですっ!
 今は涼二を―――涼二を見てあげてください!」
 私は必死に二人に呼びかけた。
 私は知っていた。
 涼二の優一さんの真似には意味があった。

「要らないって言われるのが怖くて……っ
 あの人を演じれば二人が笑ってくれるって信じて頑張ってたんです!

 僕はいいんだって! 小学生が笑ったんです!!」

 そんな少年が何を飲み込んであんな風に笑えるんだろう。
 私は見ていた。
 お葬式の日もずっと涼二のそばにいた。
 ある日その決心を聞いて、涼二はそれ以外全部要らないって笑ってた……!

 私にはそれを見守るしか出来なかった……っ!


 だから、私だけでもずっと一緒に……!


「今話さないと――涼二は……」
 視界が少しぼやけた。
 あの時の涼二を思い出した。
 私にはどうやっても救えない涼二。
 この二人にしか、どうすることも出来ない……だからこそ。私は叫ぶしかない。

「涼二はっもう立ち直れないんです――……!
 お願いっ涼二を助けてください……っ!
 涼二はっ優一さんじゃないんだって言ってください……っ!
 涼二が本当に怖がってるのは――二人に要らないって言われる事なんです……!」

 いつも怖がっている。涼二はこの二人が好きだから。
 両親として尊敬しているから。だからこそ、ずっと耐えてきたんだと思う。でも。

「おかしいじゃないですか……!
 涼二ばっかりが皆に気を使って自分を削っていくなんて……!
 贖罪を自分で自分にかけてそれを全うしようとするような無意味な事をしてるんです!
 誰からも責められていないのに……。
 誰かに取り憑かれたみたいに優一を目指すなんて変じゃないですか……!
 涼二は、涼二は一度も、優一になりたいなんて言ったこと無かったんです!
 絶対に僕が超えるとか! サッカーで勝つとか!
 ずっと“兄ちゃんには負けない”って言ってたじゃないですか!!」

 涼二は涼二で居たかったんだと思う。
 小さい頃から負けず嫌いで比べられる事を嫌った。
 しかし次第にサッカーで良い成績を収めていき自分を認めてもらうという事を覚えたんだと思う。
 勝った負けたに執着心を見せるようになった。それは彼の強い自己主張の表れだ。
 だからこそ彼の優一になるという言葉は、彼に最も似合わない言葉なんだと思う。

 そして、彼は今、優一に負けそうだ。

「だから今! 追いかけてあげてください!! 『涼二』を!!!」

 今言わないとまた仮面を被って、一生こんなことを繰り返してしまう。多分次に戻るような事なんてナイのだろう。
 きっと本当に涼二は優一さんになってしまうのではないだろうか。
 そんな予感すらする。きっと私の事はまた避けるようになるのだろう。今度はもっと上手い方法で。
 誰も傷つけまいとして、優一さんになりながら、涼二を演じるのだろう。

 きっと、人生がピエロとも言えるような滑稽な生き方をするのだろう。

 私は泣き出してしまった。
 せっかく、大好きだった涼二に戻ったのに、今日はあんなに楽しそうに笑っていたのに。
 また誰かの仮面を被って、涼二は笑う事になってしまうのか。
 たった1日だけで、終わってしまうのだと思うと悲しくて仕方が無い。
 自分を傷つけていく道を歩き続ける涼二は、もう、見たくない―――。
 そう思ったら本当にボロボロと零れるように涙が出てきた。
 私がやってあげられることなんて殆ど無い。この人たちにしか、それは出来ないのだ。

 不意に私の肩に、手が置かれた。
 
「うん……ごめんねっホントみーちゃんにまで迷惑かけてっ」
 涙を拭いながらおばさんは笑いかけてくれる。
「……すまない。情け無い限りだ。私は誰を見ていたんだ、本当に……」
 おじさんもそういって不器用に笑った。
「後は任せてくれ」
「後は任せてちょうだい」
 二人同時にそう言って、私の横を通っていった。
 私はその場に泣き崩れた。



*Ryoji...


 波、の音が聞こえる。
 海岸みたいだ。
 ザクッザクッと足音が聞こえる。
 砂浜を歩いているみたいだ。
 他人事みたいに自分が見える。
 ザクッザクッ
 見ているようで見ていない目で前を見る。
 暗い、海岸が見えた。
 ザクッザザッ
 歩みを止めた。
 意思なんてない。
 俺は虚ろな目で防波堤を見上げた―――。

 そこに防波堤があるなんて分かっていたわけでもない。
 俺が唯一居られた場所。
 海岸沿い、街灯が照らし出すあの場所。
 そこに―――詩姫が立っていた。
 楽しそうに歌っている。
 あの歌。
 詩姫は涼二の歌と呼んでいた白雪さんの作った歌。
 斬新な旋律、心に残る歌詞、そして―――詩姫の声。
 歌い終わって彼女はこっちを向いて微笑んだ。
 ただ純然たる笑顔。
 でも、それが一番似合ってるなって俺は思う。

 ガヂッっとスイッチが入った。

 首の裏に痛みが走るような急激な目覚め。
 急に視界が開けた。
 挙動不審になって回りを見渡す。
 暗い夜の海岸。
 防波堤のステージ。
 だが―――そこに詩姫の姿は無い。
 波の音だけが、そこにあった。

「―――詩姫」

 勝手に口がそう動いた。
 いつも、いつでも俺を、たった一人、涼二として見てくれた。
 それが―――ただ嬉しかった。
 俺は防波堤のステージに立って海を見渡す。
 相変わらず冷たそうで、広いだけ。
 ここに立って、やることは一つ。
 ―――歌うことだけだ。

 俺は肺いっぱいの空気を吸い込むと、全部を声に変えてはきだした―――

 真っ黒な海は俺の声をどんどん吸い込んでいく。

 無茶な歌い方だって、分かっていた。
 それでも今、歌いたかった。
 声が枯れても良い。
 詩姫は言っていた。
 思いを全部声に変えて、思いっきり歌うんだって。
 この歌を聴いて欲しい人は、今ここには居ないけど。

 俺はこの歌だけを今歌うんだ―――!

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